【タイトル】 海猫ロンド満潮コンチェルト
【執筆ライター】 栗須亭
【参加予定人数】 1人〜
オープニング /ライターより /共通ノベル /個別ノベル


●「海キャンプ」 オープニング

 もう、傾いてきた太陽の日差しが、砂浜の透明な砂粒に斜めに降りてきていて、その弱まった光波の僅かな信号をキャッチした砂粒たちは、キラキラと、新たな信号を誰かに向けて発信している。一方でうねる水面に落ちた光は、反射と屈折を選択し、あるいは深い底面へ向かって四散する。
 目を瞑れば、もうイメージを描けないし、見つめていても、同じ場面は二度と戻らない。人の位置や、波打ち際の湿った面積。エッジにオレンジ色を閉じ込めたガラスの小瓶。
 押し寄せる波と言ったら、貝殻の屍骸や、海藻の切れ端、誰かの永久に届かない恋文など、気の抜けた物しか運んでこない。
 次第に聞こえてくる騒々しい作業音。少数の生徒は夕飯の支度に取りかかっているようだ。コンクリートブロックの突貫工事で竃を作り炊飯を行うグループと、鉄板にガスバーナを用意してバーベキューの準備をしているグループと、大きく色分けされているようにも伺える。
 空にはいつの間にか月がでていて、しかしまだそれほど暗くは無い。半数の人間はまだ浜辺で体力の消耗に勤しんでいる。
 脚が痺れてきたので、鍵屋智子は背後の砂を払って立ち上がった。ただ立ち止まっていても気味が悪いので、貝殻の欠片の無い、安全なルートを選んで浜辺を少し歩く事にした。水辺まではまだ遠い距離だった。キャンプをしている広場から海辺までは、緩やかに下る放物線を描いている。彼女は海辺と平行して移動していた。進行方向の少し遠い所に、岩石の高く隆起した場所が見える。そこで何人かが今でも遊んでいるのが見えた。多分4人。いや、5人? 現在目視できるのは4人だが、そのいずれもが同一の方向へ反応を示している。そちらの方向(つまり、彼らの見ている方向)は、この位置からは岩陰になって確認できない。
 一目、水面の辺りをあても無く伺った時、二人の人物に気がついた。浜辺に半身を起こしている人物と、もう一人は……生徒会長の、何と言ったか。とにかく、その二人だ。生徒会長は彼を見下ろしながら何か催促している様子だった。一瞬だけれど、何かを手渡すのが確認できた。これでも目は良い方だ。
 鈍く光る物体のようにも見える。あるいは、水晶か、それに相当する輝度を有する個体。それが一瞬のうちに取引されていた。一見すると不気味でしかない。「その石綺麗だね」なんて空前絶後の会話が繰り広げられていたのだろうか。その仮説を破棄するとしたら、彼の規則に反する行為による接収なのか。だが、いずれも不自然極まりない。
 鍵屋はルートの確認を諦めて、斜面に対して垂直に浜を降りた。夕暮れの色で分からなかったけれど、声をかけられていた側は髪を茶色に染めていた。近くまで寄って、それがようやく判明した。一応、姿は記憶しているけれど、名前はインプットしていない。静かに背後まで接近する。
「ごめんなさい。差し出がましいようだけど、彼と何の交渉をしていたのかしら?」
「は?」男が振り返る。上体を反らして、辛そうな体勢だ。
「もう一度言う?」鍵屋は両手を両腕を抱きかかえる様に腕を組んだ。
「な、何にもしてねえっての。誰だよ、あんた」彼はくるりと鍵屋に向かって居ずまいを直した。
「事を有利に進めたいのなら、相手に譲歩することが必要」
「意味が……、日本語で喋れっての!」
「ねえ、草間くん。私は貴方が生徒会長に渡していた物に興味があるだけ。教えてくれない?」
「何で、俺の名前知ってん……」
「ご丁寧に、背中のシャツのタグに、名前が書いてあったわよ」
「あっ! くそ、誰だ、あんのババァ、勝手に!」草間は上半身を捻ってその位置を調べようとしている。シャツを引っ張っているが、脱がなければ見える訳が無い。
「ご親切な両親ですこと。それより、どうなの?」
「知らねえよ。俺が石みたいなのを拾ったら、なんか、くれって言ってきて。そんでなんか、そこの辺に結構あるらしいってよ」
「……そう」
 そう言うと鍵屋は短い距離を小走りに進んだ。そして、急にかがみ込むと思うと、顔だけ反転させて彼にきいた。
「もしかしてこれのこと?」右手には先ほどの小石がある。透明度が高く、何かの結晶体だろうと鍵屋は予測する。
「ああ、多分な」
「目、悪いの?」
「わかった。それだよ。それ!」
 彼女は片目を閉じて、左手を真っ直ぐ伸ばし、海の方へ身体を向けた。左手の人差し指と親指を伸ばし、Lの字を作っている。そうやって、何かを望遠しているようだ。
「私は何光年も先が見える……」
「んなわけないじゃん」
 小声で呟く草間の微かな抵抗に、鍵屋はまるで死んだ子犬を慈しむような目で彼を見た。
「貴方って、本当に哀れね」
「放っとけ!」
 その時、それほど遠く無い、二人より少し手前の方で数人のヒステリックな会話が聞こえてきた。
「あれ、なんだ?」草間もそれに気がつき、脚の砂を払うと立ち上がった。
「生徒会長ね。君、名前知ってる?」
「繭神だろ? おいおい、生徒会長の名前くらい、っておい」
 鍵屋はすでにそちらへ歩き始めている。やはり貝殻が足下で痛かったけれど、短距離なので我慢する事にした。草間もその背後を追ってきている。足音でそれがわかった。
「どうしたの? 騒々しいわね」鍵屋は興奮気味に話している生徒に目をやる。二人の女子だった。
「ああ、どうやら所定の場所以外で調理しているグループがあるらしくてね」繭神は両手の掌を上に挙げるジェスチャを見せた。いよいよ疲労してきた、という素振りだ。
「あるらしい、じゃなくて、あっちの岩場の方へ行くのをちゃんと見ました!」
 激しく声を浴びせている方の女子は、水着にTシャツを着ていて、右手には黄色のメガホンを持っている。時々、そのメガホンを左手にポンポンと打ち付けていて、それが何となく鬱陶しい。
「ああ、貴女、風紀の方?」
「あなたこそ誰よ?」
「その質問には飽きたわ。繭神くん、私たちが見てこようか。ああ、勘違いしないで。どうせ私たちは食事の準備とかには無縁だし、貴方たちと言えば他の雑務に忙しいのでしょう? 物事を大きくしないためにも、あるいは効率の問題ね。私個人の嗜好や好意とは違うわよ。そう、ボランティアかしらね。これで今までの欠席日数を多めに見積もってくれるかしら?」
「なんっで、俺……」
「悪い。助かるよ。では、わたしは生徒会本部のテントにいるから、結果を後ほど報告してくれないか」
 鍵屋は無言で頷く。視線は岩場の方角へ向かっている。その崖の上では、海猫の一家がぐるぐると旋回していて、時々遠くの風が運んでくる、ニャアニャア、という鳴き声が耳に残る。

「さ、行くわよ」
「マジ、かよ」




●ライターより

 さて、プレイヤーは調理器具を持って岩場へ向かった失踪グループになってもらいます(プレイヤの参加人数が少なくても、物語に支障はございません)。内容は単純なエクスプローラ(探索)ノベルになります。ただし、要素(ジャンル)としてはオカルトSFホラーとなりますので、予めご了承ください。

 物語のパートとして、「洞窟の探索」「未知の生物との遭遇」「光る小石の究明」と章がわかれております。比較的ボリュームのあるノベルとなります。

 また、物語に入れて欲しいパートなど、ご希望があれば意見を反映させて盛り込ませたいと思っています。どうぞ、お気兼ねなくお申し付けください。

 では、夏の良い日を。



●【共通ノベル】

第1楽章 満ちる

「その異様な悲しみは」とあなたは問う。
「どこから寄せてくるの? 黒い巌に満ちてくる潮のように」
──私たちの心がひとたび収穫を済ませれば、
生きることは苦痛、これは誰もが知る秘密……。



 辺りは随分暗くなっていた。徐々に明るさを失っているはずなのに、ある一定のレベルを超えないと、それを認知するのは難しい。時間の概念に置き換えて言うならば、誰かと(あるいは物質的対象)待ち合わせをしているとき、予定時刻よりも1分や2分遅れたくらいでは、待たされている、という発想は喚起されない。ところが10分ほど経過した時点で、突然判定を覆し、待たされている、と考えるようになる。
 人の思考は否応なく不自由だ。デジタル化され、分断化され、断続と不規則性を、連続と関連性に置き換える。蛍光灯の点滅。時計の針。生まれたときからずっと生きている、と錯覚している自分。死なないと、死んでいることに気づかない他人。死んでも、死んだと気づけない自分。思考はどこまでも鈍く。そして、優しい。
 他人への、そして自分への鈍感さ。それが、つまり優しさだろう。
 鍵屋智子は夕闇の浜辺を歩いている。砂浜の構成している物質の細やかさも次第に失われつつある。拳ほどの大きさの石も転がっていた。先に見える岩場も近い。
 彼女のすぐ後ろを草間武彦がついてきているのがわかる。ペタンペタンというビーチサンダルの音が、発条を動力にした玩具のように正確だ。しかし、それも自らの思考の鈍さが見せる幻影。錯覚。もっと正確なものには気づかない。正しいものは埋もれていて、たまに現れる不規則で偶発的な素子に感知しているだけ。奇跡的に浜辺でリズムを刻む草間のサンダルと、奇跡的に生きている自分の意識と。
 死んだものは、海に溶け合い、あるいは砂浜の下で風化し、気づかれないように息を止めて潜んでいる。
 静かだった。波の音も、サンダルの音も、自分の呼吸の音さえ、静けさの住人となっている。音がないわけではない。音が静かなわけでもない。静けさは自分の中にある。静かだ、という言葉の意味は、すなわちメンタルな状況を表しているのだ。
 例えば、授業を受けている最中「静かにしなさい」と教師は窘める。あれは、自分が集中できない、という意味と、集中したいと願っている他人が集中できない、という二面の意味がある(本人の意志に関わらず)。大きな音が伝播することへの不快感、というのは一次的な要因である。煩いのは自分の精神であって、騒いでいる本人達はいたって静かだ。暴走族のマフラの音だって、当事者達は煩いなんて思ってもいないだろう。そういった理解のギャップ、そして矛盾に気づいていない第三者は、「煩い奴等だ」と虐げることで処理を完了させる。音も光も、物質世界には存在しない。人が知覚し、聴音することで再現可能なのである。よって、音も光も、人間が感じている情報の出力に過ぎない。石や土にとってはただのウェーブ。風のようなものだ。
 すると、教師は発言している対象を見誤っている可能性がある。本来ならばこう言うべきだろう、「騒いでいる人を除き、静かになりましょう」と。それは数学的に当然の帰結と言える。ただし、抽象的過ぎて誰にも理解はされないだろう。
 もうほとんど夜だと言ってもいい。キャンプ場のある広場から、波長の長い光が二人の背後を照らしている。ひと気はまばらで、辺りはすっかり閑散としている。観察できる範囲では、海の方に数人と、進行方向に二名。それ以外はキャンプ場へ引き返したか、あるいは別の都合で居なくなっている。
「おい、本当にこのまま行くのか? 適当に報告すれば大丈夫だと思うけど」草間は鍵屋に言った。久しぶりの会話だった。
「ああ、その手があったわね」鍵屋はこたえる。前を向いたまま、止まろうという気配はない。風が強くなってきたせいか、彼女の髪が大きく振られている。時々それを右手で抑えている。
「なんだかな……」
「どうして自分達で見に行かなかったのかしら」
「は?」
 風の音が妨害して、言葉は断片的にしか草間には届かなかった。彼は聞こえてきた単語を繋げて、文章を想像してみる。昔友人と遊んだ、トランシーバの玩具を思い出した。有効範囲はおよそ半径200メートル程度で、実用性はない。例えるならコードレス糸電話のようなもので、会話の内容もスポンジのようにフカフカ。感度もよろしくない。結局は、送信と受信というメカニズムを楽しむだけのものだった。子供の玩具ほど贅沢だと思う。それだけのために? と思うことが大半だ。逆に、こんな事も出来るあんな事も出来るというシステムの方が貧しい発想なのではないか。
「あの風紀委員」
「ああ。さあな」
 相変わらず鍵屋は前を向いている。もしかしたら風と会話しているのかもしれない。
「気にならない?」
「あまり」
「ふうん。カタツムリみたいね」
 草間は顔をしかめて鍵屋の後姿を睨んだ。意味はわからないが、何か頭にくる。もしかしたら、「あれが北極熊よ」と言われてもイラついてしまうかも知れない。そう思った。
 足元の剛性が顕著になってきた。すぐ先で、岩肌が砂の下から露出している。崖の高さが、近くまで来て見ると問答無用に強調される。頂上付近の様子は、ここからではもう確認できない。姿は見えないが、ウミネコの鳴き声が聞こえる。
 二人が岩肌の斜面を登っていくと、ワンピースを着た女子が彼らに気づいた。もう一人は、下方のごく水面に近い岩の上で三人を伺っている。そちらはブルーのシャツにハーフパンツだ。
「ちょっと聞いても良いかな?」鍵屋がきいた。
「はい?」ワンピースの女子がこたえる。「ああ、もしかして……」彼女はもう一人の方へ視線を送っている。SOSサインでも発信したのだろうか。
「もしかして?」鍵屋は彼女に歩み寄った。足元を見ながら、適当な位置まで移動する。人が立つために作られた場所ではないので、バランスをとるのに集中力をまわさないといけない。
 もう一人の方が、ひょいひょいと軽い足取りで岩場をジャンプして登ってきた。暗いし、髪が短かったせいもあって男子かと思っていたけれど、近くで見てみると女性であることが判明した。
「風紀に見つかった?」彼女は右手を頭の後ろに回して言った。しまった、というポーズだろうか。
「いいえ、安心して。でも、強引な解釈だけど、私達が風紀の代理と言えなくもない」鍵屋は後方を確認して言う。草間のいるポジションを見つけるためだ。それから辺りをぐるりと見回した。
「え、そうなんですか? あ、えーと」ブルーの方が一方のワンピースへテレパシーを送る。
「ちょっと、いや、多分、ですけど。大変な事になっちゃったようで」彼女は腰の前で、両手の指をそれぞれ突っ張るように密着させた。そうやって逆三角形を作っている。
「大体の想像はつく」
「え?」
「他の人たちは?」
「そこの」ブルーの方がこちらの岩場と向こう側の岩場との間に侵入している海を指差す。
「海の底」
「は? 海の底? 死んだわけ?」草間が久々に口を出す。もともと、口数は少ないタイプなのかもしれない。
「あれ、草間じゃん」今度は草間のいる方向へ指をさす。「暗くてわからなかったよ」
「あん? あ、お前……。え、じゃあ、まさか。ああ、まじかよ。うちのクラス? 勘弁してくれ……」草間は頭を垂れて、人差し指と親指でこめかみを押さえた。
「いや、トラブッてるのはうちのクラスだけじゃないよ。他のクラスの娘もいたし。イーブン、イーブン」
「あほか」と草間は口を開いたが、声には出さなかった。
「それで?」
「それでって?」彼女は頭を斜めにした。
「海の底、だけじゃわからない。ちゃんと説明してくれないかな」鍵屋は右手を腰に回す。
 草間が右手の崖に沿って登ってきた。ちょうど一人が歩ける程度のスペースが空いている。鍵屋が立っているのは、海に近い方の岩場だ。岩が一つ一つ独立した形になって、集団を形成している。よって、左右の足では高低差で30センチほど離れている。時々、打ち寄せる波の飛沫が足元にかかった。
「あの、私達だけ途中で抜けてきたんです。私がお手洗いに行くからって。彼女も」と言ってワンピースはブルーに顎を向ける。「一緒で」彼女が話し終えると、奇妙な間が空いた。確実に抜け落ちている情報に、彼女は気づいていないようだ。不思議そうに目配せを開始した。
「えっとね、だから。さっきまでは、そこ、洞窟みたいな場所があって、その中にいたわけ。あたし達。でも、満潮っていうのかな? 多分、そう。いや、こんな広い海で起こるもんなのかどうか、そういうのは詳しく知らないんだけどね」とブルーが補足する。彼女は、うんうんと呟きながら小刻みに頭を縦に揺らしている。昔、そういう人形があったな、と鍵屋は思い出す。
 なるほど、と小声を漏らすと、鍵屋は蝋人形のように固まった。緩慢な動作で腕を組んだ後、それっきり動かなくなったのだ。
「普通、さ」草間が言う。独り言のようだが、ブルーに向けて発しているのは明確だ。「普通、気づかないもんか? 出て行くときには随分と水位は上がっていたはずだろうに。満潮って言っても、10分やそこらじゃ、洞窟の入り口が塞がるほどじゃない」
「もともと、かなり水没していたのでしょうね」間髪いれず鍵屋が言う。考えが偶然言葉になったような調子だった。
「そうなのか?」草間がきいた。
「ええ、そうなんです。でも、水浸しなのは入り口だけで、面白半分に奥へ入ってみたら、意外と中が広かったものだから」ワンピースが答える。ブルーも頭だけ頷いていた。
「面白半分? 残りの半分ってなあに? 食欲?」そう言って鍵屋は吹き出した。他に笑っている人間はいない。「ああ、もう、可笑しい」
「あの、で、私達はどうすれば」
「帰ってよろしい。ああ、そうね、一先ず生徒会の方へは連絡しておいて。あなた達の方が主観的に説明できるでしょう。こちらは任せておいて」
「あ、はい、わかりました」
「大丈夫かな」
 ブルーがこぼしたその一言が、一体何を意味しているのだろう、と草間は瞬間的に考える。中に取り残された奴らか、あるいは今後の自分達の身柄か。それとも大穴を狙って、草間と鍵屋の立場か。
 散々考えた挙句に「大丈夫だろ」とだけ言って、それだけで何が伝わっただろうか、と多少後悔を残すことになった。いつも、大事なところでマイナな問題だけが残る。プラモデルの仕上げの塗装で、少しずれた文字のレイアウトのように、瑣末なことだけれど、自分にとっては最大級の未練。簡単なことなのに、思い通りに運べないという気持ちの悪さ。そんな時には、この湿った海風にさえ気が滅入ってしまう。
 元来、物事は完全に燃焼できないのでは、と思える。消しゴムは最後まで使い切った事が無いし、シャンプーの容器なんかも確実に使えなくなる残量がある。全体の1割を奪うヨーグルトの蓋。クッキーの箱にぎゅうぎゅう詰めにされた5円玉と1円玉。十分余白はあるのに、使い終わったというレッテルを貼られた授業用ノート。
 いつだって、言えなかった事、やりたかった事、そういった残り物とも言える気持ちの搾りかすに対して希少価値を求めずにはいられない。だけど、ノートも、消しゴムも、その時は勿体無いと感じるだけで、後になってみればゴミになるだけ。この気持ちだって、同じことだ。どれだけコレクトしてみたところで、どんどんゴミが積もるのと同じ。
 こうやって気にしすぎていること自体、そろそろ溜まってきた証拠ではないか。捨てようか、仕舞おうか、足で踏みつければまだまだ入る、そんなありふれた日常の葛藤が繰り広げられている。
 ブルーとワンピースが岩場から離れていく。鍵屋はより水面に近い場所まで降りていくことにした。草間も崖から離れて、砕け散った惑星のような岩場にやってきた。海は青色を失い、ただ黒く淀んでいる。月の光が波のエッジを鈍く照らし出す。崖と海面の接触している部分が、大きく削り取られ、それが洞窟の入り口だということが不鮮明にわかる。
「これか」草間が囁いた。
「洞窟って言うより、巨大な排水溝みたい。下水道の出口だったりして」
「それ、ジョークだろう?」
「ジョークにしても、推測できる可能性を述べただけよ」鍵屋は屈伸をしながら言った。
「やっぱり入るのか」
「そういうこと」
 鍵屋は後ろ髪をゴムで留めると、深呼吸を開始する。服装は学生服のままだ。
「何分持つかな」そう言って彼女は微笑む。靴を脱ぐと、次第に傾斜する地面を下った。足が水に浸かり、スカートの裾を液体が上る。白いブラウスの色は透けて、肌に張り付いた。足の先から見えなくなる。ブラックアウト。海に溶けるように沈む身体。大きな怪物の口へ吸い込まれていく黒い影。後に残るのは、死者を弔ったような静けさと、他人を勘違いさせるように整列された革靴。手紙が添えてあったら完璧だ。
「分? 秒の間違いだろう」と草間は心の中で呟いた。
草間も履いていたサンダルを手に持つ。
「これで並べたら、まるで心中だな」
 想像してみて、恥ずかしくもあり恐ろしくもあるので、そのまま手に持って潜ることにした。
 指先が触れる。胸まで一息に着水した。海水は、正気を失ったように冷たい。遠くから聞こえる賑やかな笑い声が懐かしい。月を眺める。死んでもいいよ、と囁いているようだ。海は死んだもの達の水溶液。だからこれだけに冷たく、死を優しく、そして易しく受け入れる。
 大きく息を吸い込み、草間は、夜の水溶液へ沈んでいった。



 音が無くなる。光が消える。鉄パイプを弾いたような高周波が、頭の中で鳴っていた。
 何も伝播を果たさない。
 消えていくもの。
 堕ちていくもの。
 そういった抜け殻のような静寂がこの先にあるのだろうか。
 目を開けたらきっと痛い。そんな生命活動のささやかな反応さえ愛おしい。
 全てが遠く。遅い。10センチ進むのにだって、時が数秒経つことだって、気の遠くなるような労働だ。
 後方から押しだされるような力を感じる。まるで追い風に煽られたビニール袋のように舞う。爽快とは言えない。絶望ともちょっと違う。
 何とか手を伸ばして、底面を探る。自分がどちらの方向を向いているのか、何に対して平行なのか、それもわからない。
 身体が重い。服を脱いでおけば良かった。
 苦しい。体内に残留する酸素がすべて燃焼しきったのだろうか。心臓が激しく脈打つ。絶叫のような鼓動だ。
 魚になりたい、なんてフレーズが、ここではメルヘンの意味を持たず、ただ現実的に、急行直下型の火急的必需性をもった願望になる。
 滑空するジェット機のように足を出す。地面か、あるいは垂直四方の壁いずれかに接触した。慣性を手に入れた身体は、急激な流動に反発する。圧迫。摩擦。衝撃。前のめりになりつつ、沈もうとする身体を支える。重心が下がると言うことは、水面が近いという兆候。鉛のように重い身体を持ち上げる。気分はブリキ人形。壊れかけてガタガタだ。
 身を包むような閉塞感は消えた。流れも収まる。ようやくだ、と心の中で呟き、水面へタッチする。
 久しぶりの空気。すっかり水を含んでしまった服を引きずるように這い出る。
 瞼を開くと、ランダムに空間を照らす赤い炎。
 そして、4人の女子。
 いずれも硬直して、こちらを見ていた。
 5秒の間を置いて、一斉に、悲鳴。



「それで、首尾はいかが?」そう言ったのは月神詠子。生徒会本部の大型テントの奥にあるハンモックに腰掛けている。身体ごと宙に浮いていて、上品に垂れる二本の白い足が、麻布の床に淡い影を落としている。
 ほぼ正方形に近い室内には、今は月神と繭神しかいない。ハンモックを浮かしているロープが、室内の対角線を通って、テントの天井隅まで緩やかな放物線を描いている。
「今のところ、致命的な問題はありません」生徒会長の繭神が答える。「それより、危ないですよ。ハンモックの構造上、水平方向への反力は自由ですから、少しでも重心を移動したらせん断応力が働いて……」
「はい、はい。大丈夫だって。そんな講釈必要なし。僕はね、水平方向には強いんだから」
「恐れ入りますが、仰る意味がわかりません」
「ああ、もういいの、いいの。表現が固いなあ」そう言って、月神は滑り落ちるようにハンモックから飛び降りた。と言っても、地面から60センチ程しか浮いていなかったので、端的に言えば飛び降りたことになるが、観察しうる限りでは単に立ち上がっただけである。
「風紀の娘らは何て? 何か、話していたでしょう」
「はい。岩場の方へ向かった生徒を目撃したそうです」
「それで?」
「鋭い」繭神が呟く。「正直なところ、あまり進言したくはなかったのですが、風紀に代わり、男女二名がそちらの確認に向かっているところです」
「一般の生徒だね?」
「ええ」
「ふうん」月神は腕を組んで、ゆっくりと歩き出す。歩き回れる面積が限られているため、そんなにスピードは出せないのだ。
「まあ、仕方ない。無事を祈ろう。でも、不味いよねえ。風紀の娘達さあ、今時……」



「泳げない?」草間が声を上げる。
「ええ、かなづちだと思う」鍵屋が言った。服は脱いでしまって、今は水着姿だ。制服は火の傍に畳んで置いてある。
「その仮説だと、何も矛盾しない」
 洞窟の中は大きな空洞になっていた。水平方向に広がっていて、しかし奥の方は暗くてわからない。時々聞こえる風の共鳴が、反響を繰り返してごうごうと鳴り、まるで怪物の胃の中に放り込まれたような気分にさせる。
「カナヅチってさあ、トンカチの事を言ってるのかなあ?」そう言ったのは、洞窟の住人とも、漂流した遭難者とも言える4人の内の1人、海原みあおである。地面に膝を折り曲げて座りながら、両手には紙製の皿を下から支えるように持っている。
「ある意味そうかも。このトンカチ野郎って言うもんね。あれ、言わない?」海原の隣に座っていた葛生摩耶が言った。
「言うかどうかわからないけど、聞いたこと無い」と、亜矢坂9すばるが一言。彼女は、海原と葛生を結んだ直線の中心から、焚火を通って対象側……、つまり簡単に言うと、少し離れたところにいる。
「それって泳げない人に言う言葉なわけ? そんな危機的な場面で卑下するもんかなあ」シュライン・エマが言う。彼女は葛生と壁面との間に座っている。
 気がつけば鍵屋の一言からマトリョーシカのように雑然とした話題が急速展開していた。問題となるテーマを掘り下げているのか、それとも砂山のように積み上げることである種の興奮状態を目指しているのか。充分つみ上がったところでの崩壊を、誰もが期待しているのだろう。しかし、その崩れ方が中途半端だったり、地味な造型に留まる始末であった場合は危険である。数々の労力に見合った成果が求められるだけに、取りを務める者のプレッシャは大きい。
「こう、極限的な状況なわけよ」葛生は両手を使ってパントマイムする。何かを表現している、という事は察知できるけれど、『何か』を特定することは不可能だ。「台風やなんかが来て、洪水なんかなっちゃってさ。おいおいそのままじゃあ沈んじゃうぞ、っていう時に、まあ、励ましの意味が籠められているのかな」
「何かそれ、不自然じゃない? もっと有効で優先的な言葉があると思うけど」エマが身を乗り出した。煙たいように片眉をひそめている。実際、煙たかったかもしれない。
「セコンドじゃあないんだから、うまい事言わなくてもいいの。そう、野次だね。野次」
「セコンド?」海原がきいた。紙皿はいつの間にか地面に置かれている。食べ切れていないカレーが少量残留していた。
「そう。ボクシングとかの」
「ああ、今だ左出せっ! ってやつね」
「あはは。そう、そう。それってさ、今だ、って言っている間に左を出せる状況じゃなくなってるよね、絶対に」
「マシンガントークで頑張るのさ」
「て言うか、そんなセリフ聞いたこと無いよ。今だー、なんて」気の抜けた声でエマが言った。
「言えてるね、それは」葛生が呟く。「ところで、何の話だったか」
「セコンドでしょう」海原が間髪入れない。
「違う、カナヅチだよ」すばるの抑揚の無い発声。
「ああっ、そうそう。トンカチね」1オクターブ音階を上げて葛生が言った。
「あのさ、それって、薄らトンカチの間違いだろう」草間が久しぶりに、しかしタイミングを見計らって言った。だが、終始溜めていたにもかかわらず、内容が薄い。伴って、危険な兆候がアウトラインを見せる。
「ああー」4人が声を揃えた。
 静寂が彼らを拍手で迎える。
 つまり、やってしまったのだ。
 自分の砂山で起こるメインイベントを、一足先に突かれて崩壊してしまった状態。
 不完全燃焼で温まらない空気。
 一酸化炭素中毒張りの息苦しさ。
 音の無いスタンディングオベーション。
「あ、どうぞ。続けて」視線を逸らす草間の側頭葉に、汗。
「こらこら。勝手に話題切っておいてそれは無いでしょう」
「どこに続くの?」
「どこから来たっけ」
「あ、そうだ。鍵屋さんの一言からだよ」エマが頷く。
「別に、話題の提供を意図する発言じゃなかったけれど」
 先ほどから鍵屋は体育座りの姿勢を保守している。その座り方のどこが体育会系なのかはわからないけれど。
「じゃあ、やっぱりあんたが悪い」葛生が草間を指差す。
「あほか」草間は発音しないで口だけ開けた。
「あ、あほって言った!」
「違う、青って言ったんだ」



 話は4時間前まで遡る。
 時刻は午後3時を回ったところである。風は適度に湿っていて心地よいし、日差しも暖かく穏やかだ。遠くの地平線上には巨大な綿菓子を連想させる雲が、海面に浮かぶように停滞している。
 浜辺に一般の来訪者の姿は無く、学園の生徒のために貸しきられているようだ。しかし、海を利用するのに金をとられる、という理不尽が、いまだによく理解できない。そう言えば、山を登るのにも金がかかる。金を払うことで生じる責任が、人口社会に帰属する者としての危険行動抑止に繋がる、という指向かもしれない。
 でも、やはり自由な進入を拒んでいる、という意思があってもわからなくも無い。そう、それだけの価値がここにある。
 ある者はビーチボールを投げ合って、ある者はバレーボールを打ち合って、ある者はスイカを目を隠して叩き割ると言う、なぜか普段では然程楽しいとは言えない遊戯に夢中になっている。スイカ割りにおいては、普段では考えられない常軌を逸脱した行動だと言える。
 原始的な行動が楽しくなるのだ。包丁があるのに使わない。ゲームの定義やルールを適用しない。これは、アルコールで酔った状態に近いのではないか、とも思える。他に類例は少ない。
「ハロー、エマ」葛生が砂浜の傾斜を駆け足で上ってきた。「あれ、泳がないの?」
「今から行くよ。みあおちゃんとすばるちゃんを待ってるところ」エマが答える。そうしているうちにも日焼けしそうだった。
「そうなんだ。あのね、あっちのさ、岩場なんかエキサイティングだよ」
「え、そうなの? エキサイティング?」
「そうそう。もう、フナムシがゴキブリみたいでうじゃうじゃと」葛生は手を広げ、指を虫の足のように動かす。
「わあ、やめてよ。ああ、鳥肌立つ」エマが両腕をさする。
「うそうそ、大丈夫。でもね、大きい洞窟みたいなのがあって、それが結構ホラーチックなのよね」
「へえ、海に侵食されたのかな」
「かもしれないね」葛生は腕を組んで頷いた。
 すぐ近くの駐車場にバスが入ってくるのが見えた。後発グループのバスだ。校舎を出たのは同時であったが、途中で信号に引っかかってしまい、後発と先発に分断された。きっとその後、渋滞に見舞われたのだろう。エマや葛生達の乗るバスは、運よく渋滞を先行する流れに乗れたのだ。
「お、ようやく来たか」エマが振り返る。だが、バスの事を言っているのではない。彼女の視線の先に、こちらへ接近してくる2人の女子が見えた。
 2人とも身体は小さい。小学生と言っても通用はするだろう。少女的な顔立ちで、肌は白い。1人は、両手でビニールの球体を抱えていた。
「遅い遅い、皮膚ガンになっちゃうよ」
「ごめん。テントが難しいだもん」海原が謝る。太陽が正面に位置しているため、眩しそうな表情だ。
「ビーチボール持ってきたよ」すばるはボールを何度か30センチほど空中に浮かして、キャッチすると同時にその空気圧を確認した。
「あ、いいね。王道的青春系!」葛生が砂浜の上で弾む。
「せ、青春……?」
「これはもしかして晩御飯当番を決めるのね? よし、行こう!」
「そうなの?」
「いや、あれ? おかしいなあ」
 葛生とすばるが早足に砂浜を下る。その後を、エマと海原が追いかけた。
 それからと言うものの、ボールを投げ合って落とした人がポイントを減算されていき、最終的に最もポイントが低い者2名が罰ゲームというルールとなっていたが、途中からカウントなど忘れてしまい、結局晩御飯当番が確定することは無かった。休憩やバレーボールなどに浮気しつつ、そのゲームは2時間ほど続いた。
「そろそろ、準備した方がいいかも」葛生が言った。まだまだ充分に明るいが、押し寄せる波のエッジがオレンジに染まりつつあった。そして何より、空腹の程度がいい頃合だった。
「うん、お腹空いてきたね」海原が言った。膝を折って、その上に両手を休めている。
「どこで食べる?」エマは抱えているボールをすばるへ渡した。
「さあ」すばるが首を傾げる。
「あっち、あっち」葛生が指をさした。その方角には岩場が見える。「早くしないと誰かにとられる」
「え、本気? 範囲外じゃない」
「うん、気にしない方がいいと思うよ、そういうことは」彼女は小鳥のように早口で話す。「よし、さあ、行こう」
「はや!」エマと海原が声を合わせる。
 すばると葛生がラグビーのパスを真似て砂浜を駆け上っていく。やはり、その後を追う2人だった。
 その後、更に2名を加えて総勢6名で洞窟へ向かうことになった。服を着替え、一通りの準備を済ませてから、6名は洞窟へ侵入する。次第に光度も落ちてきている。空にはオレンジとブルーのグラデーションがかかっていた。
「へえ、ちょっと坂道になっているんだ」海原が呟く。壁面に反響する声が、この空間の膨大な容積を誇示している。
「暗いな」すばるも呟く。彼女は先頭から二番目を歩いていた。
 エマが持っていた懐中電灯で進行方向を照らす。視界に突然露わになった洞窟の天井を見てゾッとする。今にもコウモリが奇声を発して飛び出してきそうな雰囲気だ。
「驚異的な空間ね」
 すぐ先で大きく空間が広がっているのが、開口部の変化により確認できた。薪を持っていたエマが、広間の中央に木の欠片を集める。固形燃料を薪の下に置いて、それで……。
「あ、火。チャッカマン忘れちゃったよ。誰か持ってる?」
「はい」葛生が色のついたプラスチック製のライタをポーチから出し、エマに手渡す。
「ああ、ありがとう。って、ええと、これは?」
「私の私物」
 ほうほう、と小刻みに頷きながら、エマは燃料に火をつける。ぱちぱちという音が鳴り始め、ぼんやりとした光が闇を追い払う。
「この、不良娘」エマが笑顔を浮かべる。
 葛生は口もとをあげてライタを受け取った。
 すばると海原が手ごろな岩を見つけて、焚き木の周りにそれを並べていく。少し背の高い岩を2つ用意し、それに木の枝を渡して、突貫製の釜戸を作る。あらかじめ研いであった米の入っている容器の取っ手を、その木にぶら下げてご飯を炊くことにした。
 最初はこの閉塞した状況に抵抗を持っていたが、次第に感じる居住空間みたいな安心感に、心は落ち着きを取り戻している。段々と洞窟に慣れてきた一行である。
「この鍋は何?」すばるが見慣れない鍋を発見する。
「ああ、それね。炊き込みご飯」葛生が答える。彼女はもう一つの釜戸を作っている最中だ。
「ちょ、ちょっと待って」海原がカレーの材料を切りながら、目を丸くして驚いた。「一体、何を炊き込んだの?」
「え、それは、うふふ。秘密」
 かたかたと音を立てて、火にもかけていない鍋の蓋が微動する。うわあ、と海原は心の中で絶叫する。
 しばらくして下ごしらえも終わり、完成を待つのみとなった。そこで途中参加の2人が手洗いで抜けた。
「さあて、行きますか」葛生が徐に立ち上がる。
「あれ、手洗い?」海原が座りながらきいた。
「違う、違う」葛生は洞窟の奥に向かって親指を立てている。
「え、本気?」
「もちろん」
「探検? すばるも行く」
「エマは?」
「2人を待ってるよ」
「仕方ない、3人で行くか」
 そこで海原は自分が数に入っていることに気づく。
「えと、みあおも待っとこうかなあ」
「いけずだなあ」葛生が口を尖らす。
 エマの懐中電灯を持つと、葛生とすばるが闇へと消えていった。暗い、長い、などの単語が反響しながらも伝播してくる。やがて、走ってくる音。
「暗い!」葛生は息を切らしている。
 すばるがゆったりとした歩調で戻ってきた。
「そりゃ、見たらわかるよ」エマが言った。
「しかもね、探検にならないのよ、これが。ずっと一本道。長いよ、あれは」
「へえ」
 談話がひと段落し、料理も出来上がったにも関わらず2人は戻ってこなかった。駆け落ちか、などと冗談を飛ばしながら、4人は先に食べて待つことにした。
「いけるでしょう、海鮮炊き込み」葛生がスプーンをくるくる回して言った。
「カレーと合う。海鮮カレー」すばるが感想を言う。
「ところで、何だかさ」エマが話題を切り替える。「耳が遠くない?」
「あれ、やっぱり。みあおも」
 エマの頭の中で、様々な想像が駆け抜ける。2人が帰ってこない理由。耳が張る理由。それはつまり、気圧の変化ではないか。
 彼女は懐中電灯を取り出して、出口付近を照らす。白く反射する地面。否、水面だ。それが完全に開口部を塞いでいる。
「あ、嘘でしょ」ため息とともに声が出た。
「今日はここで野宿なの?」海原がきいた。
「外へ行っても野宿には変わり無いよ」すばるが言う。確かに、その通りだ。
「うーん」
 その時、水面がざわつく。音の変化に、4人は気づいた。
「何? 何?」海原は眉を寄せて、表情をこわばらせる。
 するとまもなく、水面が持ち上がり、物体の黒い影、水の弾ける音。人間だろうか。しかし、格好が異様すぎる。女子制服姿の人影が、全身に水を引きずりながら、這い出るように水面から浮上した。
 どれくらい静止しただろう。
 静謐な時間が流れる。
 1、2、3……。
 息を止めて待っている。
 4……。
 堤防の決壊を。
 5。


第2楽章 見知る

この苦痛。それがあまりに単純で不思議もなく、
誰にも明らかなのは、あなたの歓びと同様……。
だから探るのはやめなさい、詮索好きの美女よ、
あなたの声は優しい、けれど黙っていて……。



「正直、あの時は死体が漂着したかと思った」
「まあ、こっちも死体になった気分だ。もう少しで溺れる所だったぜ」
「そうなの?」
「地形のせいで乱流が起きている。回転運動ね」
「泳いで戻れない?」
「そうね、別の世界へ戻ることになるかも」
「オカルトー」
「奥はどう?」エマは懐中電灯で奥を照らす。光が拡散して、洞窟の奥はぼんやりと曖昧にディティールを現している。
「結構深そうだね」海原が呟く。
「行こうぜ。ここで休んでいても落ちつかねえ」草間が立ち上がる。まだ焦げていない焚き木を2本取り出して、片方の先端を焚き火へかざす。「ここにいたいって言うのなら、構わないけどよ」
 草間は洞窟の奥へと歩き出した。
「あ、ちょっと。隊長は私!」葛生も立ち上がった。すぐに草間の後を追いかける。
「私も、奥へ行くわ。服も乾いたみたいだし、報告の義務がある。あなた達も、決断するなら早めにね」
 鍵屋は水着の上から制服をすっぽり着ると、草間の後をゆっくりと追いかけた。
「どうする?」海原がきいた。彼女も、他の2人もすでに立ち上がっている。それが、意見の一致を意味しているにも関わらず、言葉としての意志を参照にしたいという欲求が、あるいは、後が無い状況下で、背中を押してくれるきっかけが欲しいのかもしれない。まさに、背水の陣ではないか。
 すばるは腕を組んで、肩を持ち上げた。どうって事無い、という意味だろう。この少女は、見かけによらず物怖じしない。そういう印象を再認識させる瞬間でもあった。
 海原とすばるも火のついた焚き木を持って、3人は草間達の後を追うことにした。



「暗くなってきたなあ」月神が呟く。
「一日の終わりが、気になりますか?」繭神は遠くの月を眺めている。だが、しばしば、遠いものだと知識で認識するに留まる。実際に遠いかどうかなんて、瑣末なことではないだろうか。
「他意はないよ」
 月神は繭神を睨んだ。そうやって、牙を剥くこと自体、焦っている証拠だ。それを感じて、余計に腹が立つ。忌々しい性質だと言ってもいい。
 こんな時、何を思い描けばよいのだろう。
 幼い頃の幸せな記憶。
 これから起きる、未来への予感。
 しかし、何も無い。まったくの虚無なのだ。すっかり抜け落ちてしまっている部分に限って、その存在を愛おしく、また恨めしく感じることになる。よって、考えるだけで吐き気がする。
「テントへ戻る」
「ええ」
 繭神は彼女の背中を見届ける。
 決断を鈍っているのは自分ではないか、と呪いのため息を吐き出した。
 何が良いのか。何が悪いのか。
 誰にとって良いのか。誰にとって悪いのか。
 拾い集めるだけで、何が変わるのか。
 違う。
 変わらないための行動だ。
 誰だって、変わらないために生きている。
 死なないようにと願いながら。
 呪われているのはどちらだ。
「……どちらも、か」
 繭神は口元をあげて苦笑した。



 随分前から会話はなくなっていた。歪な形状をしている地面を黙々と歩いている。壁面も、天井も、歩き心地は変わらないだろう。少しずつ傾斜しているのがわかる。下る方向へ、地面は傾いていた。通路の断面は円形に近い楕円形で、3人が横並びして歩くには少々苦しい。また、至る所で湾曲したカーブが、まるで生物の腸内のようだ。
 息の漏れる音がする。
 停滞する空気が湿っていた。
 風は無い。
 何も動いていなかった。
 先頭を行く草間は、左手で壁面をなぞる様に歩いている。その後ろで観察しながら、賢明だ、と葛生は思う。同じ場所をループするという危険性を排除する有効策だろう。
 時々、ため息の音。
 その頻度も次第に上昇している。
 突然、静寂を割って、低い、空洞を抜ける空気のような音がした。
「腹でも空いたか?」草間は葛生に目配せする。冗談にしては品が無い。
「違う」葛生は草間を睨んだ。
――ゴリゴリ。
 全員が一斉に足を止める。
 雷のような、地響きのような、気味の悪い低周波音が小さく轟く。
 葛生が後方を確認すると、真後ろにいた鍵屋が首を傾げる。
「そっち?」葛生がきいた。
「いいえ、違うみたい」最後尾のエマが答える。
 つまり、発信源は前方ということだ。
 返答を聞いて、草間が歩き出す。
――ゴリゴリ。
 音が近くなる。石臼を回しているような音にも思えてくる。
「気をつけろ、登り坂だ」草間が後方を確認して言った。
 エマは前を歩く者のために、足元を照らした。懐中電灯は持ってきておいて正解だった。
 そうしている内にも、音は巨大化する。洞窟内に反響して、余韻がいつまでも残る。
 足元に微震を感じる。
――ゴリゴリ。
 予測するなら、坂道の先。そこが音の発信元だ。
 滝か何かあれば、そこから抜けられる可能性が高い。
 草間は大股で坂の終点を目指す。
 大気の微動を感じる。
 風。
 気圧の差異。
 だが、それに反して募る、不信感。
――ゴリゴリ。
 断続的な低音。
 共鳴するように、鼓動が鳴る。
 滝の音ではない。
 まるで、
 巨人の歯軋り。
――ゴリゴリ。
「はあ。広いな」草間の声が響く。「何の音だ?」
 葛生、鍵屋、海原、すばる、エマの順に坂を上りきる。
「天井」すばるが上方の何も無い空間を指差す。そこには何も無い。そう、天井が無い。
「空だ」海原が息を吐くように呟いた。
 天井の欠けている部分から、淡い光が放射されている。しかし、輝度が低く、辺りを照らし出すほどではない。
――ゴリゴリ。
 音はすぐ近くで鳴っている。
 エマは空間の中心と思われる部分を、懐中電灯で照らした。
「あ」
 自分のどこからそんな声が漏れたのか。
 だがそれよりも先に、電灯のスイッチを切る自分がいた。
 目?
 顔?
 映し出したくない。映し出したくない。
 心ではそう呟いている。
――ゴリゴリ。
「はあ……、っはあ」呼吸を立てて泣いている。なぜ泣いているのだろう、と考える。
 泣いていると言うより、勝手に流れ出ている。そこに自分の意思は無い。
 太陽を見れば目を細める。誰だって、そうだろう?
 ただ、見てしまったから。
 何を?
 その先の言葉が見つからない。
 わからない。
 このまま封じ込めたい。
――ゴリゴリ。
「大丈夫」すばるがエマに触れる。きっと、また肩を持ち上げて言っているに違いない。
「なん、っだよ、これ」草間は片手を持ち上げて、それを照らす。「あり得ねえ……」
 中央の低くなっている部分に、静かに発光している物体がいくつも飛散していた。月の光に呼応するように、淡く光る。
 徐々に、暗黒のアウトラインが鮮明になる。
 烙印を刻むように、それは視野に侵入してくる。
「食ってる」抑揚の無い声で葛生が囁いた。
 そんな表現がこの世にあったのか、と思うほどに、この状況を呪う。
 鍵屋はスカートのポケットに手を差し込む。石を手の先で確認し、これか、と心の中で呟く。
 断続的な音が止んだ。
 黒い影が『食事』を取りやめ、しかしその姿が大きく動いた。
「危ねえ!」
 鍵屋は衝撃を受けて地面に倒れる。草間が突き飛ばしたのだ。
 鈍い重低音と共に、圧倒的な威圧感で佇む影の正体を見た。
 艶やかな体表は禍々しく湿っていて、所々に血管が外部に浮き出ている。人が巨大化して、四足歩行になった状態。という表現では俄然物足りない。怪物は頭部から壁面に激突して、片手が壁を押さえつけている。
 5人は一斉に壁際から飛びのく。すばるだけ、自分の位置を守っていた。怪物を横目にして睨んでいる。
「すばるちゃん!」エマが声を上げた。
「平気だよ」すばるは姿勢を低くして、その場を離れる。
「天井は登れないな」鍵屋は遥か遠い天空を見上げている。「勝てそうもないし」
 怪物はうなり声を上げている。だが、目立った動きは見られない。
「これ、何なの?」海原が小石を拾う。
「食べ物には見えないけどね」葛生が口を斜めにして言った。
 沈静状態なのか、興奮状態なのか。行動に余裕の出てきた6人だ。
「こっちに続いてる」エマが通路の開口部を照らす。
「ついてるわね」鍵屋が言った。
「どこが」草間は怪物の様子を監視しているようだ。
 まだ動かない。
 聞こえてくるうなり声は、苦しそうにも思える。
 やがて見切りをつけ、全員が奥へ進むのを待って、草間もその後を追いかけた。



 どれだけ走ったかわからない。
 左へカーブする螺旋の通路を、ひたすら登った。
 背後には恐怖感というプレッシャを背負って。
 意思という明確な指標は無く、ただ、ぼんやりと走っていた。
 先に何があるでもなく。
 ただ、延々と見る夢の久遠の瞬きにも似た、
 この、曖昧な行方。
 あまり、記憶に残っていない。
 薄いレースのカーテンが示す朝の目覚めにも似た、
 この、憂鬱な虚ろ。
 深い井戸の桶を引き上げるように、手許に達する中途で大事な物事がいくつもこぼれてしまったのだろうか。
 唯一鮮明に思い出せる。
 最後は高台に抜け出した。
 水平線には太陽が低い波長で漂っていて、空に鮮やかな模様を投影させていた。
 海面は随分下で、洞窟の入り口が左方の最下部に伺えた。何人か人が集まっていて、それぞれが話を持ち合っている。
 その崖の天辺には、ぽっかりと。生い茂る草の中に、円形の。空洞が口をあけていた。
 そして、空洞の上空を、ウミネコ達が気味の悪い声で、しかし楽しそうに円を描いてバンクしていた。
 まるで、ロンド。
 遠くの波が連れて来る。耳に心地よいさざ波は、満潮を迎えるためのコンチェルト。
 嘘みたいに静かだった。
 きっとこの世は、神がついた、嘘なのだ。
 そうなんだろう?


第3楽章 魅入る

私の心を、どうかこのまま、偽りのうちに酔わせ、
あなたの美しい瞳に、夢でのように沈ませ、
そしてあなたの睫毛の陰に、長らく眠らせて……。

エピローグ

 生徒会へはブルーとワンピースの2人が説明をしていたお陰で、簡単な質問にイエス・ノーで答えるだけで、他にお咎めと言ったら些細なものだった。
 調理器具などは風紀が片付けを始末していたらしく、私達を見ると舌打ちをして、随分と不機嫌な様子だった。
 後日、私達は気運にも再会することになった。
 それは、鍵屋が皆を集めるように声をかけたからだ。
 一体、まだ何があると言うのか。
 否、何も無いと言うほうが不自然だろう。
 徐々に明らかになるディティールは、私達の学園に影を落とすことになる。
 物体は質量を得ることで、また、固体として認識されることで影を産み落とす。
 それと同じメカニズムだろう。
 怪物も石も、忘れ去られるのは早い。
 化学変化のスピードで、無害なものへと変容していった。
 人の心とは、そういう濾過装置のようなフィルタを搭載しているのだ。

 さて、一夏の乱舞は、こうして幕を閉じた。
 やがて再開する、第2幕のためのささやかな休憩にしか過ぎなかったのだけど、

 それは、また、別の話。



※作中各章の引用文は、『悪の華・常時同様』(ボードレール著 南堂久史訳)によりました。


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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【整理番号 / PC名 / 性別 / クラス】
【0086 / シュライン・エマ / 女性 / 2−A】
【1415 / 海原・みあお / 女性 / 2−C】
【1979 / 葛生・摩耶 / 女性 / 2−B】
【2748 / 亜矢坂9・すばる / 女性 / 2−A】
【NPC / 鍵屋・智子 / 女性 / 3−C】
【NPC / 草間・武彦 / 男性 / 2−A】
【NPC / 月神・詠子 / 女性 / ?】
【NPC / 繭神・陽一郎 / 男性 / 2−B】
(番号順)



●【個別ノベル】

【0086/シュライン・エマ】
【1415/海原・みあお】
【1979/葛生・摩耶】
【2748/亜矢坂9・すばる】