調査コードネーム:「あやかし」と呼ばれたヴァイオリン
執筆ライター  :x_chrysalis

 【オープニング】
 【 共通ノベル 】
 【 個別ノベル 】


【碇・麗香】illust by つかさ要 【オープニング】
 「あやかし」という名前は、そのヴァイオリンが通常の松や楓では無く、「綾になった木目を持つ赤樫」で造られている事からもじった物らしい。同時に「妖怪(あやかし)」、とも……。

 ■

 ──ア、ここにも仏さん。
 
 ……「仏さん」と、まるでコンビニエンスストアでも見付けたような気楽さで青年は呟いて片膝を付いて屈み込み、彼女の存在を放り出して黙祷を始めてしまった。

「……ねえ、卍ぃ……、」

 ──何、と、先程まで真面目くさった仕種で地面に屈み込み、仏教坊主気取りに閉じた目の前に片手を立てていた青年は打って変わった気楽な表情で振り返った。
「……何て云うかねえ、……あんたさ」
 結城・レイ(ゆうき・れい)は溜息を吐いた。駄目だわこりゃ……。
 彼に関しては、『卍』という徒名しか知らない。レザーのライダースジャケットにぼろぼろに擦り切れて白いペンキの散った黒いジーンズ、銀色まで脱色した短髪。そこだけが少し長い後ろ髪の合間には、首筋に堂々と──当初は、彼女さえ本気でネタなんだか真面目なんだか、と悩んだ──「卍」の刺青。
 何でも、出身が京都の寺の次男坊なのだそうだ。基本的に脳天気なニュアンスの話し言葉にも、どこかそれらしい、おっとりした京都言葉のニュアンスが伺える。──見た目、パンク被れのヤンキーにしか見えない癖に……。……呆れつつ、この青年との腐れ縁は長い。レイが良くも悪くも東京に多発する怪奇現象に関する事柄を含んだ情報屋とすれば、彼は好き好んでそうした境界をぶらついている異界の散歩人、といった所だ。

 ──富士山麓のどことも知れない森。……多分、空気の密度からして現世よりは異界に近いのだろう。この森の直ぐ側には、高峰心霊研究所の所長たる高峰・沙耶の構える温泉宿『蓬莱館』がある。……幽かに硫黄の匂いがする。
 ……大体。……大体の真相はレイも把握していたが、だからといってそんなややこしい温泉宿に逗留する気など無い。……それなのに、何故私はこんな所へ居るのでしょう? ──ああもう良く分からない、どうにでもなれ。多分、コイツ……「卍」にいつの間にか引っ張って来られた気もする。

 ■

 ……確か……そうだ、いつもの通り法定速度を自転車の特権であっさりと振り切った時。……不意に、周囲の空気の密度がおかしくなった事には薄々気付いていた。「不味いな」と咄嗟に脳裏に警鐘が響いた。……異界に入ってしまったか。
 さっさと引き返さなければ、と冷たい汗をこめかみに浮かべた時だ。焦る風でも無く、寧ろ気分良さそうに颯爽と目の前を歩く彼と遭遇したのが。

「ZERO? おー、久し振りや」
「……あー……、」
 彼の話題はいつも、唐突に始まる。
「──ZERO、楽器とか詳しいんやろ。赤樫で出来たヴァイオリンとか、知らんか?」
「ある訳無いっつーの。……あー、そう云えばこの間、ガラス製のヴァイオリンなんていうのが話題になったっけ。でもあくまで見た目のきれいさと話題性だけで、音は最悪だって。……普通、表板にはスプルース、裏板にはメイプルを使うの。ヴァイオリンなんか完成された改良の余地の無い楽器だから、余っ程安物の量産品で無い限りそうなってるわよ。……大体、樫って、何で」
「──そうそう、奏原・弦太郎いう人、知っとる?」
「……あんた、本当に会話が出来ない人よね。何で、って訊いてんでしょう、て云うか知らないわよ、誰」

 ……多分、紛れ込んだと同時に同じ速度で突っ切っていれば、一瞬間遺界を通過しただけで何事も無く元の道路上へ出られたのだと思う。然し彼女は戻り損なった。あまりにも気楽な目の前の知り合いとの世間話に、「こんな事してる場合じゃない」と自覚しながらもずるずると付き合って時間の経過を見送ってしまった事で……。

 ■

「何、じゃ無くてさ。あんたが坊主なんだかどうなんだか、私にはどうでも良いのよ。般若心経唱えるなら別でやってくれない?」
 ──帰りたいんだけど。
「坊主ちゃう、つーとんのに。ZERO、耶蘇教は全員神父か? ちゃうやろ、仏教徒が全員坊主とかそれは無いわ。ついでに俺、厳密には仏教徒や無い」
「当たり前でしょ、あんたみたいな罰当たりな仏教徒、ヤだ。……どっちかって云えばあ、アジア文化を勘違いしたヨーロッパのパンク野郎……」
「──お! ええやん、それ、勘違いの仏教パンク、ええわ、そら」
「……、」
 快活な笑い声。
 ──どこまで脳天気なのだ、この勘違い仏教被れ。……彼との対話は禅問答には程遠く、万事がこの調子である。巧くはぐらかされている気もするが、何だか、だ。
 もう良いわ、……とレイは卍への突っ込みを諦め、当面自分の貴重な自由時間に多いに差し障る物事の本質へ踏み込む事を望んだ。

「て云うか、私、帰りたいのよ」
「帰ればええやん」
「──無理よ!!」

 生憎、本日の足はMTBでは無く日常使いの愛車、ロードバイクだ。しなやかなカーボンのフレームと華奢な平面専用の29インチのタイヤではこの樹海は……、──否そういった問題では無く……、只でさえ曰くの多い富士の樹海の奥深くに気付いたら誘導されていて、「お帰りは御自由に」と云われてそうそう気軽に生還出来るものか。

「連れて帰ってよ!」
「何でぇや。あんた配達業者やろうが。道分からん、では洒落にならんで」
「あ────はいはい。……あのねえ、例えば。──地図とか! 方位磁針とか! そーいったモノが通用する場所だったら『はーい』って帰って見せるわよ。私、生憎『地図の読める女』なの。……でも、……良い、あんたも大分頭の線一本飛んでるみたいだからこの際はっきり云ってあげるわよ。……、」

──ここ、どこ!!

「……温泉?」
「もうヤダ────っ!」
「ええやん。温泉て肌やの肉体労働者の疲れにええんやろ? 浸かって行きぃや」
「じゃあせめて蓬莱館まで案内してよ!」
「構わんけど」
 割合とあっさり、卍はレイの「キレる」寸前の絶叫を賺した。

「……あー、あそこにもほと──」
「もう良いッ!!」
 薄暗い樹海を歩き出しながら、再び(では無くその事は既に両手の指では数え切れない)視線を在らぬ方向へ向けて片手を立てようとした卍の後ろ髪を引っ張りながら、レイは絶叫した。
「禅問答は私を蓬莱館へ無事に送り届けてからにして!」

 ■

「……てぇ云うかや。……ZEROが何や退屈そーにしとったから、面白いネタでも見せたろと思たんや無かったかなあ」
「かなあ、って、何」
 足痛い、汗気持ち悪い、この際本当に温泉でも入りたい、……と愚痴りながら投げ遺りにレイは吐き捨てた。
「いやな、……この『無意識』ゆーもんは大事やで。無我の境地云うもんが人間の、或いは異界現象の本質左右するサジェスチョンであってやな」
「説法は良いって云ってんでしょ仏教パンク!」
「あいた」
 ──遠慮無く引っ張られた後ろ髪の生え際を抑えていた卍が、不意に「あ」と呟いて顔を上げた。
「おめでとぉ。……蓬莱館やわ」

 ──その外観の所為だけで無い、存在自体が樹海に紛れて、もし卍がその存在に気付かせてくれなければゴーイングマイウェイ、行くだけ行っちゃえ万歳なレイは恐らく見落としていただろう、豪勢な中国風建築の温泉宿が見えた。
 玄関口には、招かれざる客である筈のレイ達の来訪を全て見通した上で、有無を云わせず「歓迎」するかのように中国人形のような未だ幼い少女──蓬莱──が立っていた。胸の前で袖に隠した手を組んで小首を傾ぎ、歓待の意を示すかのように笑顔を浮かべている。

「……あう」
 
 ──そこで、レイは精神的肉体的に限界を迎えた。ぱたり、と倒れ込んだのが樹海の奥深くで無く高峰の温泉の玄関口だったのが九死に一生の倖いである。
「──ほな、生きてたらまたどっかで」
 ……卍、彼は温泉に身体を休める気は無いようだ。気楽な、底抜けに明るい笑顔と別れの挨拶を朦朧としたレイの脳裏に残し、素早くラバーソールの踵を翻して去って行く。

 ■

「──何や、クラシック好き云うから、『あやかしのヴァイオリン』の記憶ツアーに連れてったろ、思ったんに。……まあ……ええわ」

 ──別に、ZEROで無いでも興味ある輩が居るんならそれで、付いて来ても構わんけど。


【ライターより】
 □
 「あやかし」と呼ばれる曰く付きの楽器を巡る怪談、……どこかで聞いた話のような。
 もし、ただの小説やお伽噺では無く真実だったとしたら?
 あなたはそこで何を見るでしょう、どんな記憶に遭遇するでしょう?
 水先案内人は主に勘違い仏教被れの卍、舞台は主に高峰温泉を取り囲む富士山嶺の樹海。高峰温泉へ逗留中の方は旅行中のイベントの一つとして、そうで無い方はレイと同じくふとした弾みに異界へ入ってしまった所で、彼に遭遇するでしょう。
 彼は何か、奏原という既に亡き人間の昔の記憶を辿ろうとしている様子。鷹揚な性質らしいので、興味を持たれた方は後ろからくっ付いて行っても全くオーライのようです。


【共通ノベル】

【XXX】

──……是大神呪是大明呪是無上呪是無等々呪能除一切苦真実不虚故説般若波羅蜜多呪即説呪曰掲帝掲帝般羅掲帝般羅僧掲帝菩提僧抄訶……、

「……般若心経、」

 ──その瞬間、彼等は温泉街蓬莱館を取り囲む樹海の一部に張り巡らされた結界の中へ取り込まれた。
 ……「あやかし」を巡る一つの異界を垣間見る事になったのである。

【0】

「……あんたなあ、」
 これで、この青年と会うのは何度目だろう。……あっちへふらふら、こっちへふらふらと……。
 ──「遭難の地」が消滅しているとすれば、成仏出来ないのも仕方なくは無いだろう。が……。
「また会うたなあ。……何、例の何とか云うヴァイオリン、未だ見つからんの?」
 
──……ま、そらそうやろな……。

 ヴァイオリンを壊して、自分も死ぬと遺言して現在の姿になったからには、その残骸も遺体と共に遭難の地にあるに違いない。
 彼の場合、魔性の楽器に見入られた生前から、死の直前まで運が悪かった。放浪の末最期の地としたのが、選りに選って「100年周期で一月の間だけ姿を表す温泉街」だったとは……。
「……ホンマ、どうしようも無いわ」
 答えの無い思念体を前に、彼はこめかみを軽く抑えた。
 あまりにも哀れな霊なので、念仏の一つでも上げてやろうかと思った事は過去の失敗だった。
 通じなかったのである。──どうも、生前一応のクリスチャンであったらしい……。
 
 斯くして、彼の救われない魂は今尚こうして異界をあっちへふらふら、こっちへふらふら……。

【1】

「──で……、最終的に、8人、と」
 ふむ、と軽く頷きながら卍は、目の前の頭数を数えて呟いた。
「カウントしないで!」
「……僕は平凡な一介の秘書でして……、」
 ──同時に、レイの悲鳴と一応、と断る青年の声が上がった。
「ほな、6人」
「……、」
 結局カウントされた人間の中には微妙な心境の者も居たようだが、最終的に6人の男女がメンバーとして認識されてしまったようだ。……何、の?

 ──「あやかし」と呼ばれたヴァイオリンを取り巻く、一種の異界の中に。

「皆さん音楽は好きですかぁ?」
 ──この脳天気な、間延びした関西のイントネーションで喋る青年は突如、そんな場違いな問いをまるで小学生を前にして新任の音楽教師が口にするような調子でにこやかに、前述の6人へ投げた。
「……ええ……、」
 ──特に、楽器が……、──と、無表情ながら目には卍への珍奇な生き物を眺めるような色を浮かべながら取り敢えず同意したのが、紅一点(小煩いメッセンジャーは女性にもカウントしないで宜しい)、銀髪に青い瞳の端正な女子高生、硝月・倉菜(しょうつき・くらな)だ。
「好きですよ。……不快な種類の物で無ければね。──そうそう、何かと便利ですしね」
 次ぎに、にこやかな笑顔で平然と含みのある事を付け加えたのがラスイル・ライトウェイ。何が便利……、と問う者こそ賢明なメンバーの中には居なかったが、それもそうであろう。彼に取っては、音楽は好き嫌いの前にも生活の糧であったり、奏する事で霊を強制的にあの世へ送り付けたりと出来るものでもある。
「……、」
 ──こちらは無回答だったが、彼の傍らの青年、香坂・蓮(こうさか・れん)──ラスイルを師とするヴァイオリニストであり、彼からヴァイオリン演奏以外にもまあ様々な事を伝承されてしまったらしい──が心無し、頭痛でも覚えたように見える動作で俯きながら口許に手を当てた。
「お兄さんはお嫌いですかー?」
 訊かんで宜しい事を、卍が念押す。その問いには、蓮が顔を上げるより先に再度ラスイルが爽やかに答えた。
「勿論ですよ。不束ですが、これで私の一番弟子ですから」
 まさかこの後に本人が否定は出来まい。──否、音大まで出た彼に音楽を愛する気持ちが無い筈は無かったが。
「好きですよ」
 何を取り繕う必然性も無い、永き時を生きた財閥総帥は素直に、明るく静かな微笑を口許に浮かべて見せた。──セレスティ・カーニンガム。
「……音楽も、芸術も。──知的好奇心を刺激される興味ある事柄は、好きですね」
「……私ですか?」
 主たるセレスティから、卍の視線が自らへ向けられたモーリス・ラジアルは慌てた風も無く、寧ろ何か企んでさえいそうな含み笑いを浮かべて片方の眉を軽く持ち上げた。
「……そうですねぇ、無論、嫌いでは無いですよ。美しい音楽は、美しいモノ達と同じく愛でられて然るべき物だと」
 更に彼は、その手を隅で大人しく黙っていた小柄な青年の肩へ軽く掛けて話の鉾先を向けた。
「──そうでしょう? ねえ、可愛らしいヨハネ君?」
「……は、はいぃっ!?」
 俄に矢面に立たされたと知った青年、その歳若さにして神父であるヨハネ・ミケーレは咄嗟の事で吃驚したような声を出したが、「音楽、」と(どうせその辺りも見透かした上で)再度訊ねてみせるモーリスの言葉に、生き生きとした笑顔を浮かべて頷いた。
「ええ、勿論、音楽は大好きなのでございます──それに、何と云いますか、音楽には愛されるだけで無くて、何かこう、人々へ救いにも似た安らぎを齎すような力さえあるような気が致します……そこは宗教と似た物かも知れませんけれども、でも何かなあ……そう……言葉では云えない、説明の付かない、安らぎ……、」
「私も、私も好きー!」
 カウントするなと云っておいて、途端に仲間に入りたくなったらしいレイの挙手を然りげなく無視した卍は何というか、非常に満足そうだ。
「満場一致や。いやー、本当ええ巡り合わせやなー、」
「聞いてるー?」
「丁度ええわ、耶蘇教の人間も居るし」
「聞い……、」
「私が聞いてあげるからね、音楽を愛する者同士、仲良く愛し合いましょう?」
 ──寂しい女の肩に背後から両手を置いて、救いなのだか脅しなのだか微妙な言葉を囁いたモーリスに、彼女の姦しい嘴はぱちっ、と閉じられた。
「……、」
 前を向いたままふるふると蒼ざめた顔を振るレイと、自らの端正な部下に苦笑を向けたセレスティは、どうも卍が矛先を向けそうなヨハネへ主に注意を向けたままで一言だけ、簡潔な釘を刺して行った。
「……あまり、紛らわしい言葉で不安定な精神がレイ嬢の分まで増える事の無いように、(主に、精神的な異界に居る面々の安全の為に)」
「……はい」
 モーリスは大人しく忠告を受け入れて退いたが、手を離す直前に態々、「仕方ないね、折角だけれど、また後で」と云わんで宜しい事をレイへ囁いて行った。
「いや────!」
「……、」
 微笑んだままのセレスティとくすくす、悪戯めいた忍び笑いを浮かべているモーリスを除く全員が、何事かと肩を竦めた悲鳴だった。特に、倉菜と蓮は文句こそ云わないものの、眉を顰めて辟易した表情で黙っていた。
「喧し、ZERO! 説明出来んやろ!!」

【2】

「さて、今は昔、つーか明治37年」
「……平成16年」
「や、明治。……として」
 静かにお話を聞きましょうね、とセレスティに釘を刺されたレイは仕方なく、何やらブツブツと文句を云いながらヨハネと並んで、硫黄の匂いを含んだ湿気のある地面に座り込んでいた。が、どうしても口を休みには出来ないらしい。
「……バカじゃないの、」
 小馬鹿にしたように吐き捨てた言葉は、然しセレスティによって否定された。
「そのようですね」
「……は?」
「明治37年、──1904年、と申し上げた方が分かりやすいでしょうか」
「大正解」
「……、」
 卍の拍手を、セレスティは他人事のように涼しい表情で受け流して居た。
「1904年……、ドヴォルザークの没年だな」
 蓮がぽつりと呟いた。え、とヨハネが瞬きしながら視線を彼へ向ける。
「ああ……そうでしたっけ?」
「没後100年で何かと流行っているだろう。それで覚えていた。……そう云えば、カバレフスキーの生まれた年でもあるな……」
「あー、流石香坂さん〜♪ ねえねえ、ドヴォルザークとカバレフスキーの協奏曲はやった?」
「定番だから、一通りは」
「聴きたい! 今度弾いて!」
 割って入ったレイに蓮が応えている間に、卍が妙な顔をしてヨハネを振り返った。
「誰?」
「……ん、……はい?」
「ドヴォルザクとかカバなんとか」
「カバ……、……あの、作曲家です、ドヴォルザークの新世界より、なんてご存じありません? とてもきれいな……」
「知らん」
「あら(汗)?」
 ──蓮とレイはそちらで、主にレイが勝手に盛り上がってそれを妙に暖かい目でラスイルが眺めていた。
「カバレフスキーも凄いきれいよね〜、香坂さんのカバレフスキー、どんなかな〜♪」
「……蓮、このお嬢さんは?」
「──、」
「香坂さんのファンです♪」
 蓮より先に、レイが応えてしまった。
「おやおや」
「……あ、勿論ヴァイオリンの、ですからご心配なく♪ この間のクロイ──」
「だから、喧し!」
 ──ぴたり、と一瞬で辺りは静けさに包まれた。……。
 ただ独り、没年、という言葉にしんみりとした表情のヨハネを除いて。
「ああ……そう云えばもうすぐ、ファニーさんの命日でございますね……」
「……だから、誰よ」
 彼には、卍も怒鳴る気力が起きないらしかった。痛ましい表情で語る、聖職者の安らかさの前には。
「メンデルスゾーンのお姉さんです。ええと……ファニーさん……と、メンデルスゾーンがお亡くなりになったのは1847年ですからそちらは157年前ですか、になりますね……」
「神父様、どうせそいつメンデルスゾーンも知る訳無いわよ」
 レイが情緒の欠片も無い突っ込みで遮ってしまい、卍も「知らんなあ」と肯定した為に一先ず、作曲家談義は打ち切られた。
「──続き。まあ、丁度誰やが死んだの、云う話が出たけど、1904年には当然そこらの日本人もバタバタ死んどる訳。はいはい、で、その中に一人のヴァイオリニストが居ます。没後100年、その新世界とかいう作曲家と一緒な。……名前は奏原・弦太郎」
「……何と云うか、……嘘か芸名のような名前だな」
 ──字面からして……と蓮が呆れたように呟く。そらそうや、とあっさり、卍は頷いた。
「芸名みたいなもんやしな。えー、ちょっと不遇な環境に生まれた人で、赤ん坊の頃からヴァイオリニストの養父に引き取られてん。で、養父の方もそれで何や国民全員名字を名乗りましょうとか云う時代やんか。当時からハイカラな西洋音楽一家やって、適当にそれらしい名字にしたんちゃう?」
「矢張りそうか」
「……ダサ……」
 蓮に便乗して消沈したレイには卍は厳しい。
「可哀相な事云うたんなや、本人が近くに居るんに」
「へ!?」
「……あー、そうそう、こん中で当時知っとる人、居る?」
 ──さも当然のように、斯様なとんでも無い事を口にして卍はぐるりと一同を見回した。
 ……堂々と挙手する人間こそ居なかったが、「ああ、」と記憶を辿る表情を浮かべた者が、約2名。──今更であるがセレスティとモーリスだ。
「……まあええわ。……で、知っとるかどーか分からんけど、当時こんな事件がありました、と……」
 卍は、ライダーズジャケットの内側に手を差し入れて一枚のプリント用紙を引っ張り出した。
「これが、問題の1904年2月の新聞記事」
 マイクロフィルムを印刷したものらしかった。

『稀代の極悪人奏原弦太郎』


昨夜午前未明、高名なヴァイオリン奏者である奏原──氏(五二)が奏原家の自室で縊死体となって発見された。

奏原氏は二、三日前──銀行から貯金を全部引き出していたが、事件後奏原家からはその金とまた、彼の愛器であるヴァイオリンの銘器が失われて発見されていない。
▲家人や門下生の話では、奏原氏の養子であった弦太郎(二三)は二年前より忽然と家から姿を消して失踪していた。奏原では風評を恐れてその事を秘密にしていたのだが、事件の数日前から奏原家の門前に怪しい風体の男が往来していたとの証言があり、然るに警察ではその浮浪者こそ弦太郎であり、放蕩の末に金に困ったものか乞食体を装うて様子を窺い、養父が何かの必要の為に銀行から財産を引き出して来たのを見済ましてこの兇行に及んだものと見ている。云々。

「……殺人犯……、」
 ──さっ、とヨハネの顔色が蒼ざめた。……それ、奏原・弦太郎本人が近くに居る、と先程、卍が云ったでは無いか……。
「え……えぇっと、……この方、奏原さん、ですか、故人なのですよね……?」
「まあ聞き、耶蘇教坊主。……で、この記事で極悪人ゆー事になっとる奏原さん、まあ当時は尊族殺人罪とかあったから当然重罪やわな。事件の3ヶ月後の5月にお亡くなりになりましたー。然し今現在、100年後の21世紀に至るまで遺体は発見されておりません。当然時効やわな。……ま、よーある話よ」
 ……で、と卍はここでニヤリ、と笑った。
「金に困った放蕩息子が無心に失敗しておとーさんを殺害、とまあそれだけならまあ酷い話、で済むわな。貯金と一緒に銘器のヴァイオリンも一緒に盗まれました。まあ後で売って金に変える積もりやったんやろ、でフツーは済ますわな。……但し」
 卍の視線は、どこか挑発するような光さえ見せてラスイルと、その傍らの蓮へ注がれた。
「その銘器がホンマの曰く付きやったら? どうなるやろ」
「それも良くある話じゃないですか?」
 ラスイルも上級者だ。爽やかな笑顔でおぞましい話を取り合う気配を見せない。──表向き。
「以前にありましたよねえ、ストラディヴァリウスのニスには若い女性の血を混ぜてあって、だからあれ程美しい音が出るんだとか」
「そうなん?」
 駄目だ、と諦めたか、途端に卍はきょとんとした表情で瞬きする。
「さて」
「……有り得ないですよ」
 賺そうとしたラスイルは、背後からの倉菜の冷静な突っ込みに肩を竦めて口を噤んだ。
「弦楽器の塗装に使用するニスの主成分は、色成分と樹脂成分です。仮に人間の血液をニスに混入したとすれば、樹脂成分が凝固してしまって塗装するどころじゃありません。地ニスというのがあって、主に楽器の色合いはそのニスの色で決るんですけど、赤みに強いヴァイオリンというのはあくまでその地ニスに赤色が強いからです。ストラディヴァリウス神話に悪乗りしただけの話です」
「……ふーん?」
「……おや、」
 ──詳しいな、という視線を、卍とラスイルが同時に倉菜へ向けた。
「……祖父が楽器職人で、私も主に弦楽器の製作をその許で学んでいますので」
 彼女はにこりともしない。……それも道理で、それ専門の職人からすればそうした性質の悪い冗談は不快なものでしか無いかも知れない。
 そこへ、横合いからレイが口を挟んだ。
「……あー、そうそう、……卍ぃ、さっき云ってたアレ?」
「うん?」
「樫で出来たヴァイオリンがどうやら。あれの事? もしかして、その銘器って」
「ピンポン」
「……樫?」
 首を傾いだ倉菜に、ん、とレイは卍へ向けて軽く顎をしゃくった。
「アイツがねえ、さっき、樫で出来たヴァイオリンってある? って聞いたんだけど、そんなもん無いわよね」
「……普通は」
「ほら見なさいよ」
「……それが、『あやかし』なんやって」
「……あやかし?」
 ──まるで、暗誦した文章を空で云うような調子で彼は云う。
「……『あやかし』という名前は、そのヴァイオリンが通常の松や楓では無く、『綾になった木目を持つ赤樫』で造られている事からもじった物らしい。同時に『妖怪(あやかし)』、とも……」
 ──それが、と含み笑いを取り戻して卍は一同を見回し、手にした記事の写しを指先で軽く弾いて見せた。
「この事件の真犯人かも、やったりして。奏原の養父が持っとった銘器、それが『あやかし』云うてその手の筋ではちょっと有名な曰く付きの楽器やったんよな。どうも、養子の弦太郎はその魅力に魅せられたらしい、と。そうすると、この迷宮入りした事件も実際の所はただの遊ぶ金目当ての尊族殺人や無くって、もっと別な真相が有るかも知れんよなあ。……それを、探ってみん? やるとしたら、今しか無いんよ。……何せ、100年に一度やから」

 ──高峰温泉、蓬莱館はとある経緯から発生した一つの異界である。それは、100年に一度、一月の間しか姿を見せない。
 奏原の遺体と、一緒にあったと思われるヴァイオリンが警察の捜査でも発見されなかった理由。──彼の果てた地が、倖か不幸か選りに選って蓬莱館であった。何の因果か、呪われた銘器に取り付かれた青年は最期の地として、一月後には跡形も無く消えてしまう温泉街へ辿り着いてしまったのである。

「何や鋭そーな人が居るから白状しとくけど、周囲には結界を張ってます。はい、俺が張りました。つーのも、ついさっき奏原が近くに来たんが分かったんで。あっちへふらふら、こっちへふらふらしとる浮遊霊がまたどこぞの異界に迷い出ん内に、取り敢えず確保しとこと思って。あ、出たい人は今の内に云うてな。人間も出られんから。帰りたいやったら今の内」
「……、」
 ──返って来たのは、沈黙だけである。否、中には実に帰りたそうな表情の人間も居るには居たのだが、それを切り出せない状況というのは何事に於いても発生するものである。
「私は残ります。……『あやかし』というヴァイオリン、樫から造られた、それほどまでに人を惑わせるような銘器が本当にあるとすれば。楽器職人としては大変興味があります」
 華奢な外見に似合わず、大胆にも倉菜は宣言した。何より、その言葉が示す通りに楽器職人としての興味が勝ったものらしい。
「私も結構ですよ。面白そうですし、──招かれた以上は、見てみたいですね。弾ける状態であれば尚良いですが」
 穏やかな笑顔で、ラスイルも動じない。
「……、」
 ──また、妙な事に巻き込まれた……。
 蓮は俯いて左片手で目許を覆っている。その薬指には、銀色の小さな指輪が嵌まっていた。……帰りを待つ恋人も居るというのに……。
 然し、「俺は帰る」とはその時の蓮には云えなかった。何せ、傍らの師が自分は残ると云っているのである。それに逆らえば、この温厚そうな銀髪の青年がどうするかを、望むと望まざるに関わらず幼少の頃から良く知っているのも蓮本人だ。
 興味深い事柄、とすれば辞退しないのはセレスティも勿論と云うか。
「音が聴こえれば良いですね。どんな音がするのでしょう? 何か曲でも聴ければ嬉しいのですが」
 彼にとって危険はこの際無いも同然らしい。達観している。のんびりと、笑顔で優雅な事を宣われた。
「奏原氏が演奏するとなれば、100年前ですからあまり近代の作品では無いのでしょうね。モーツァルトか、バッハかヘンデルか。その辺りでしょうか」
「……申し訳ありませんが、僕は作曲家の時代は全く……、」
 笑顔で話を振られた彼の秘書は、一応の受け答えをしつつ溜息混じりに肩を落としていた。セレスティが残るとなれば、自分はせいぜい護衛が目付け役として残らない訳には行くまいと。
「……、」
 因みに、レイはその中で独りだけ「帰りたいです」と云いた気な顔でひっそり挙手していた。……が、その手は卍の目に留まる前ににこやかなモーリスに拠って下ろされてしまう。
「寂しいじゃないか。一緒に付き合いましょう?」
「……陵、こいつ何とかして」
「元気な方は自分の事は御自分でどうぞ」
 修一は総帥大事とばかりに取り合わないので、結局彼女も嫌々であろうが残る事になった。
「ええっと……、」
 ──と、ヨハネが口を開きかけた所で卍が失礼にも真直ぐ、彼へ指先を向けて有無を云わせない調子で一言。
「あんたは残り、耶蘇教坊主」
「はいぃっ!?」
「奏原家、耶蘇教徒やねん。宗派は知らんけど、取り敢えず神父が一人でも居ったら便利そうや」
「便利……、」
 ──僕は便利なモノ、ですか(汗)……、否、一応、彼も音楽には造詣の深い事であるし、残る積もりではあったのだがそう命じられれば流石に複雑だろう。然し彼は神父様である。「殴られても殴り返さない類の人間」、っと……。
「あー、良かったー、」
 卍は一同を改めて見回し、上機嫌だ。
「これだけ居ったら、流石に100年来の浮遊霊でも成仏するやろ」

【3】

「……それにしても、ですね……、……音楽は本当に魅せられるものですし、良い楽器というものは憧れですけれども……、……その為に、人命を奪ってしまうなんて」
 ──悲しい事ですね、とヨハネがやや俯き加減に呟いた。
「それも養父である師を殺めた、というのが不遜ですねえ」
 ──云う割に、その顔がにこやかなのが逆に不気味なラスイル、卍がそれを受けてヨハネに振った。
「そういう人間て、許されるもん? 耶蘇教では」
「ええと……、」
 叙任されて久しい神父だが、個人的にヨハネはそうした説教は苦手だった。
「物欲ですとか……殺人、それに自殺ですとか……、本当は、勿論キリスト教徒でなくとも許される事ではありませんけれども……、……でも……、」
 ──あの、とヨハネは顔を上げた。彼の瞳はあまりに真摯で、ついセレスティの表情が綻んだ程である。
「本当に、その記事は本当だったのでしょうか……。真相が知れる前に自殺されたのですよね、でしたら、全て彼の罪だと極め付ける事は出来ないの、じゃあ……」
「……、」
 ──ここで、ニヤリ、と卍が無言の内に笑った。……何か思う所があったらしい。
 然しヨハネは返事を待っている。──その表情があまりに痛ましかった事と彼のへの愛おしさが半々で、モーリスは不意打ちに青年神父を背後から抱き締めていた。
「ああもう、ヨハネ君は優しいねえ、」
「ぇ……えぇぇええええっ!? あの、モーリス、さん……?」
「あまり思い詰めては君の方が参ってしまうよ? 安心しなさい、どんな人間であっても、こんな場所で亡くなったからにはきっと木々の肥料になってくれているからね、それだけで充分許されると思いましょうか」
「えぇえええええ!!???」
「──総帥、」
「はい?」
 護衛役、と当初の緊張もこの間延びした光景を前にやや冷めた感情を取り戻してしまった修一が、気を緩めた所為で大分不用意な言葉を呟いた。
「……前から思っていたんですが、……あの人の価値観、大分風変わりと云うか……捻くれていませんか」
「おや、……耳が痛いですねえ」
 セレスティは敢て、そんな言葉をにこやかに返してみた。主に、彼に心酔し過ぎた修一の反応を楽しむ為だけに。
「違います、そんな、総帥の事では無くて、」
「……、」
 黙って、目の前のドタバタを眺めていた卍がちら、と視線を横合いの樹海の奥へ向けた。
「……そろそろ、やなあ」
 ──ぱん、と一度卍が打った手の音がよく響いた。
「ほな、そろそろ奏原探しに行って来るわ。見つけたら引っ張って来るし、まあ、処分はそん時に耶蘇教徒同士でどうとでも」
 ──ヨハネは、通常ならば聞き捨てならないそんな軽口にも、モーリスの個性的な理を説かれた後では「……はあ」と大人しかった。
「ここで待っとってなー、」
 ──そう、卍が待ち合わせのように気楽に云い置いて踵を返そうとした時だ。
「私も行きます」
 ──振り返った卍の直ぐ目の前に、そう云った倉菜の無表情があった。
「……んー?」
「奏原氏を探しに行く、と云う事は、恐らくその横で同時に壊されたヴァイオリンも一緒に存在するかも知れない訳でしょう? 興味があります。楽器職人としては、不遜かも知れませんけどそこまで一人の人間の運命を翻弄した程の楽器、……見てみたいですね」
「……楽器職人ねえ……、」
「面白そうですね」
 さも当然のように、ラスイルが続いた。──不運なのは傍らの蓮だ。何やら、不安そうな表情でちらり、と横目でセレスティ達を見詰めている。
「俺は……どちらかと云えば残りたいんだが、……」
「ヴァイオリンの修行の一環と思いなさい」
「……、」
 師の表情は、未だにこやかだ。──同意するなら今の内である。仕方無しに、溜息混じりに蓮は「……行く、」と独白のように呟いた。
 ──それを満足気に眺めて微笑んだラスイル、実際の所、危険も無いだろうと安易にこの華奢な弟子を目の届かない場所へ置いておくよりは、多少の足労をさせても自らの側にあった方が安心、と云った所なのだろうが。……保護者の立場としては。
「──私も行きましょうか」
 最後に挙手したのがモーリスだ。
「捕獲組、という事ならば、有事の際にはお役に立てるかも知れないですし」
 そして、にこり、と微笑んで主と、その傍らの3人を振り返った。
「修一君、宜しくお願いしますよ? ……ヨハネ君、」
 実の所、誠実であっても自称「平凡な一般市民」の修一が異界の中での危険に役立つとは思えない。が、それでもモーリスが卍へ付いて行く、と決めたのは──エクソシスト、一見儚気だが対心霊能力を有するヨハネに(内心では)信頼を置いての事である。
「行ってらっしゃい。私が行っても足手まといになっては申し訳無いですから、こちらで皆さんとお待ちして居ますよ」
「──頑張ります!」
 セレスティは鷹揚に首を縦に振って微笑み、ヨハネは浴衣に着替えても大事に携帯していた「ピアノ線」を懐の中に握り締めて元気良く応えた。
「……、」
 モーリスは主の前に軽く片膝を付いて頭を垂れて、──その顔を上げた時にはやや含みのある笑みをレイへ向けて留めを刺して行った。
「レイ嬢、私が居なくても寂しがって修一君に迷惑を掛けては駄目ですよ」
「ヴァイオリンに呪い殺されちゃえ──!!」
「ああっ、何て罪深い事をっ、」
 慌てたヨハネの窘める声と、表記不可能なレイの悲鳴を背中にあはは、と軽快な笑い声を上げて、モーリスはやや足早に卍達を追った。

【4】

「……この辺、かなあ……」
 幾らか歩いた所で、卍が恍けた声で呟いた。──相変わらず、周囲は寒々しく人の影一つ見えないが。
「あら、……モーリスさんは?」
 立ち止まった所で、いつの間にか後に続いていた筈のモーリスの姿が無い事に気付いた倉菜が周囲を見回しながら呟いた。
「あ?」
「……さっきまでは一緒だったのに」
「んー、……ああ、居らんなあ」
 然し、……あの青年の飄然とした微笑を思い出すにつけ、まあ不安は無いだろうと……。
「……大丈夫やろ。何やあったんなら流石に気付いた筈やし、何か見付けて脇道行ったんちゃう? ……それより奏原!」
「呼び出しましょうか?」
 不意に、ラスイルが自信のある声で提案した。
「呼ぶって。どうやって?」
「ヴァイオリニストの興味を引くなら、……相応しい方法もあるでしょう」
 ラスイルは慎重に足許の草を払って、地面の上に肩に下げていたヴァイオリンケースを置いた。
「……ふーん、……なるほど」
 ラスイルがケースを開けているのを見た卍は、大体、彼の意図が読めたらしい。
「さーて、ヴァイオリン弾きは餌に掛かるかいなー、」
「掛れば良いですね」
 2人がそうして何とも微妙な会話を交わしていた時、不意に蓮がラスイルの袖を引いた。
「──ラス、」
 振り返った師に、蓮は懇願するように必死の訴えを、言葉にするより一瞬間早く目で向けた。
「俺にヴァイオリンを弾かせてくれないか。奏原へ呼び掛ける役目を、俺に──」
 きっと、追っては駄目なのだ。受け容れてやらなければ。
 自分が生まれた頃にはとっくの昔に死んでいた奏原の何を知っているでもないが、一つだけ同調してやれる事がある。
 ──楽器。……少なくとも、他の人間よりは、ヴァイオリニストとして楽器自体に魅入られ易い事、それがどれだけ自然かを、少しだけなら同調してやれると思う。
 ラスイルは、珍しく自ら面倒というか、師に逆らうような行為に出た弟子にはただ軽く眉を持ち上げただけだった。然し、目許には笑みが浮かんでいる。
「何を弾くつもりです?」
「──イザイ、」
「イザイ?」
 蓮は、手許から顔を上げ、微笑んだ蓮の表情には自信に満ちた明るさがあった。
「昔の西洋音楽しか知らない人間となら、前にも関わった事があるんだ」
 莫迦の一つ覚えの選曲になってしまうが、いいだろう、──そこで笑顔になった蓮を見たラスイルは、まるで子供のような表情に仕方ない、と溜息を吐いた。
 蓮はヴァイオリンを左肩へ乗せ、未だ降ろしたままの右手では準備運動のように柔軟な手首の先で弧を描いてボウを揺らしていた。視線は適当な中空へ向けられているが、彼の敏感な聴覚は僅かな物音をも聞き逃すまいとそばだてられている。
 弾き方は変わっている筈だから、──もし、その変化が音色に現れていれば、ヴァイオリンの魔性に取り付かれて人間を失った奏原の意識を引けるだろう、と視界の箸で揺れるボウを何気無く眺めながら、蓮は首を傾いだ。
「……あ、」
 倉菜が低く声を上げ、云ってしまってから手を口に当てて塞いだ。
「……あれ……」
「蓮、」
 ラスイルが蓮の右手を、誘うように持ち上げた。
「弾きなさい」

【5】

「ヨハネ君はもう大体、蓬莱館の中は見られたのでしょう? 如何でした?」
 ──場面変わって、こちらは待機組のセレスティと、ヨハネ。
 どちらかと云えば、周囲が斯様な鬱蒼とした樹海では無く、ウェッジウッドのティーカップ片手にモーツァルトの弦楽四重奏でも聞きながら取り交わされるのに相応しいような会話だ。
「ええ、それはもう興味深い建物でした……。中国様式と云いますか、建築自体も面白かったですし、何しろ広くて……。……そう云えば、セレスティさんは休暇でいらっしゃりますか?」
「まあ、そうですが。案外療養してみるのも良いかも知れませんね」
「……あんた達、暢気過ぎ」
 ぐれたように適当な草を口唇の端に噛みながらレイがぼそりと呟いた。
「レイ嬢も後で如何ですか、逗留されては」
「私は今直ぐでも帰りたいの!」
「そう急く事もありませんでしょうに」
 総帥の笑顔には、誰も文句は返せない。──レイが黙ろうとした時だ。
「……?」
 ──遠くから、ヴァイオリンの音が聞こえる。
 結界の影響か、可視範囲に奏者の姿は見えないのに、まるで反響の良いホールのように、やや音は籠るが良く聴こえる。
「ああ……バッハの。……素敵ですねえ……、」
 明るいホ長調のパッセージに、その音の並びは敬愛する音楽家ヨハン=セバスチャン・バッハ以外の何物でもない旋律に、ヨハネが目を輝かせて呟いた。
「……違いますね」
 ──その特徴あるパッセージは、不意に途切れた。暫しの沈黙、──再び音楽が流れた時には、攻撃的な程にスフォルツァンドの強調された不協和なパッセージ。……沈黙、バッハのパッセージ、沈黙……。
「イザイ……ですね」
 イザイのヴァイオリンソナタ、「OBSESSION<強迫観念>」、セレスティが呟いた。
「意外ですね、現代音楽が聴こえるとは思いませんでした」
 違う……、と、拗ねるのを忘れて視線を音のする方角へ奪われたままのレイが呆然と呟いた。
「……あれ、……香坂さんのヴァイオリンだ」

【5】

「あー、戻って来た!」
 レイが立ち上がり、ぞろぞろと草を踏み分けて近寄って来る一群を指して叫んだ。卍に、ラスイル、矢張り彼だった、ヴァイオリンを持ったままの蓮、倉菜、……と、もう一人。
「おや……、」
 ──モーリスではなかった。見慣れない青年だ。それも、どこか存在のはっきりしない……。
 外見は、和装の……昔の書生風の服装をしているように見えるが、それも定かでは無かった。意思だけの存在のような、……亡霊……。
「あれ……、奏原さん、でしょうか……」
 ヨハネの呟きが聞こえたのか、卍が笑顔で手を軽く挙げた。
「んー、奏原の捕縛、成功」

【6】

「……これが極悪人の奏原の霊?」
 何か、動いて無くない? とレイが恐怖や何やかやよりも先ず呆れたように、ぽい、と投げ出された青年の思念体を見詰めながら呟いた。
「極悪人かどうかは知れませんが、……まあ、そこそこの念は持った方のようです」
 さらりと告げたのがラスイルだ。
 捕縛係の役には立つかも、と云っていたモーリスが不意に姿を消してしまい、そこへ蓮のヴァイオリンに引かれた奏原が現れたもので、その役目をラスイルが負ったのである。
 彼は威圧の視線で霊を縛する能力を持つが、弱い霊体ならば彼のその視線だけで消滅してしまう。然し、動きは奪われても尚存在している辺り、奏原の念はそこそこ強いと見る事が出来るだろうという事らしかった。
「……ふーん、」
「あなたが奏原さんですね?」
 丁度、彼が投げ出されたのはセレスティの車椅子の足許だった。やや背を屈めて彼を覗き込んだセレスティが、丁寧過ぎる程の調子で彼に問い掛けた。
「……、」
「……ライトウェイさん、もう結構ですよ。少しお話を伺いたいのです」
 解放してやって下さい、とセレスティは促した。優しい気遣いだが、「逃げたらその時にまたお願いしますが」と付け加える辺り、或いはラスイルもまた「構いませんよ」とあっさりした辺りが、何とも。
 ──威圧の視線から逃れた事で、青年の姿形は大分明瞭になった。矢張り、書生風の青年である。
「……初めまして? 奏原・弦太郎さん?」
 セレスティは膝の上に身を屈めて青年を見下ろしながら、微笑を浮かべて再度問い掛けた。
「……ああ、」
「──お話を伺いたいのです」

【7】

──誰も信じないだろう。

 私は父を殺していない。
 父は自殺だったのだ。
 あの日、父に呼ばれて部屋へ行った私の前にあったのが、自ら首を縊った父の亡骸と、……そう、あのヴァイオリンだ、「あやかし」……。
 それと、封筒が置いてあった。
 私は頭が真っ白になって、混乱の内に殆ど無意識にヴァイオリンと……その封筒を懐にして逃げるように家を出た。

「御養父のは自殺為さったのですね」

──そうだ、……その後は、……大分動転していたらしい、一旦宿に戻って落ち着いてみると、私は封筒の事はすっかり忘れてしまって、ただヴァイオリンだけを持って夜行に飛び乗った。
 それから各地を転々として、ようやく落ち着いた先の宿で私を養父殺しの犯人と報じた新聞を読んだ時には寧ろ笑ってしまったよ……。

「……アホじゃないの?」 
 まず警察行けっつーの、──お静かに。
「封筒の中身を御覧になったのは?」

──新聞を読んだ後だ。不意に思い出して。

「中身は?」

──養父の全財産だった。……それと遺書。

 笑わずに信じて貰えれば嬉しい。
 あのヴァイオリンは、私が奏原の養子になった時から既に奏原家を呪っていたんだ。
 養父はあのヴァオリンに取り付かれていたんだ。
 然し父は私を可愛がってくれた。
 養父には、自分が魔性のヴァイオリンに取り付かれているという自覚があったからこそ、それを全く自分以外の人間には触れさせないようにしていたんだが、……そう、独占よりも寧ろ、その呪いを自分一人で受ける気で。
 だから、私が養父の弾くヴァイオリンに魅せられていると知った時、養父は私にヴァイオリンを教えたのが最大の過ちだったと思ったようだ。
 然し私は浅はかで、父が「あやかし」を独占しようとしているのだとばかり思っていた。
 ……遺書を読んで、……ああ、あれは……死ぬ直前に破棄してしまったが、……耐えられなくて。
 そこには、私への思い遣りしかなかった。
 私にヴァイオリンを教えた罪滅ぼしとして、自分の全財産を私へ遣る。だから、この金でどこか人知れない閑静な田舎へでも行って平和に暮らして欲しい、そして、できれば「あやかし」のヴァイオリンは壊してしまって、その呪いを断って欲しい、と……。

「……お気の毒に。──それでも、そのヴァイオリンは死後まであなたを呪ってしまったようですね」

【8】

「たかが、楽器ですよ」
 奏原に注目していた一同の不意を付いて、モーリスが戻った。
「……あ、」
 微笑を浮かべた彼が片手に持っていたのが、ヴァイオリンである。──赤味の強い、オールド楽器だ。
「まさかそれ……、」
「これが、その『あやかし』とやらでしょう?」
 見せて頂けますか、と倉菜が願い出たので、モーリスはあっさりとその楽器を倉菜に渡した。
「……赤樫だわ、……本当に」
「良い楽器?」
 楽器職人ならば、見ただけで楽器の善し悪しは大体分かる。レイの問いに倉菜は静かに頷いたが、内心では大分興味と、希有の銘器を前にした感動を覚えていたらしい。
「どこで見付けたの?」
「途中でね。残骸を見つけたもので。流石に本体は形も失せてしまっていたけど、黒檀はそう簡単に溶けないものだね。あとは、弦。まあ、錆びて見る影も無かったですが」
 痕跡さえ見つけて仕舞えば、それらを「在るべき姿」へ戻してやる事はモーリスには造作も無い事だった。
「……何故、それは、」
「壊した、でしょう? ええ、残骸でしたけれどね。未だ未練があるようですから、元の姿に戻して差し上げましたよ。……それでも、モノです。2人もの人間が、命を奪われて良い物とはとても見えないですけどねえ」
 ふふん、と腕を組んだモーリスは嘲るような視線で、投げ出されたままの奏原を眺めていた。
「……君には分かるまい、」
「分かりませんねえ。……奏する人間あってこそ、の銘器でしょう、だって」
「モーリス」
 セレスティの声は幾分厳しくなっていた。
 部下の云い分は尤もだが、それを云ってはあまりにこの故人が惨めである。
「……、」
 モーリスは大人しく軽い礼をして引き下がり、「やあ、寂しくなかったかい?」とレイを揶揄するに留めた。
「……結局……、」
 ──短い沈黙を、殊更明るい声で破ったのがラスイルだった。
「まあ、奏原さんも新聞にあったような極悪人では無く、御養父も御自身もそれぞれ自殺の罪だけに済んだと知れた訳ですし、──その事だけで良いんじゃないですか?」
「ラス、……何を云っているんだ?」
 訝った蓮に、ラスイルは視線は奏原へ向けたままでにっこりと微笑んだ。
「──浄化しましょう?」
 ひょい、と卍が片方の眉を持ち上げた。ラスイルはさらりとしている。倉菜に向き直ると「そのヴァイオリン、お借り出来ます?」と申し出た。
「演奏は可能ですか、──ええ、形だけはラジアルさんのお陰でそれらしく戻っているとして」
「ちょっと待って下さい。……任せて、」
 倉菜は俄に真剣な表情で、ヴァイオリンの裏板を叩いては駒や魂柱を覗き込み出した。
「……ああ、専門の職人さんなのですよね」
「演奏可能にしてみせますから」
「お任せしましょう。……蓮、手伝いなさい」
 口調は穏やかだが、相変わらず弟子に対してだけはどことなく有無を云わせない調子だ。蓮は蓮で、未だ先程弾いたばかりのヴァイオリンを持っているばかりにそれを軽く掲げて肩を竦めただけだ。
「──何でもするが、この際」
「奏原さん」
 突然、ラスイルは奏原へ話の先を向けた。
「フォーレは御存じですか。それとも、ヴェルディか、モーツァルト、どちらがお好みです?」
「……?」
 ──は? ……彼は突然の問いにその意味を理解出来ないようだった。
「お好みのレクイエムで送って差し上げますよ、……あなたの行くべき先へ」
 ──そういう事か。……と……。
「──Kyrie eleison、Kyrie eleison……Kyrie eleison、Christe ekeison──」
 不意に、小さな声ながら清澄な歌声が響いた。ヨハネだった。
 今まで沈黙していた青年神父が、歌い出したのはフォーレでもヴェルディでもモーツァルトでも無く、通常のミサにあるグレゴリオ聖歌の「キリエ」だ。
「……、」
 周囲がしん、とした内に、一旦口を噤んだヨハネは今度は、幽かな笑みを奏原へ向けてみせた。
「あなたを祝福致します」
「……、」
「ええっと……、」
 上手く云えない、という風に、少しヨハネは笑顔を困った風に傾いで口唇を開いた。
「あなたが、他者を殺めなかった事を主に感謝致します。そして、自殺の罪が赦されますよう、また、あなたが楽器への執着から解放されて安らかに眠る事が出来るように」
 青年神父は、彼なりの祈りを呟いて十字を切り、再び歌い出す。「Kyrie
eleison、Kyrie eleison……」
「……、」
 ラスイルの袖を、無言のまま倉菜が軽く引いていた。調整が済んだ、とヴァイオリンを差し出している。
「ありがとうございます」
「それと、これを」
 いつの間にか彼女の手に、新たにボウが収まっていた。──それは当初、ガラスのように透き通って見えたがそれは錯覚のように、直ぐに確りとした存在として具現化した。
「キリスト教徒に任せる、と仰いましたよね?」
「任すわ」
 卍の言葉を受けて、ラスは目で蓮を促しながらヴァイオリンを構えた。
 即興で付けた二重奏の伴奏だ。が流石師弟だけあって、お互いに上手く調和しながら青年神父の歌うキリエを支えている。──どうも、この2人は口先での会話より、視線のやりとりとお互いの音を聞きあっての合奏の方が上手く意思を疎通出来るらしかった。
「Kyrie eleison、Christe ekeison……、」
 自分の仕事は終わった、と倉菜は、今度は小さな声でヨハネに合わせて歌い出した。……キリエ、極自然とレイが混ざる。
「……、」
 セレスティとモーリスはただ目を細めて眺めていただけだが、一瞬にして清澄なものに変わったこの場──結界内の異界の空気の影響か、誰もが穏やかな表情をしていたように思う。

【9】

「──消えたな。成仏し──や、浄化って云う?」
「どちらでも構いませんよ」
 応えたラスイルの手中には、既に件のヴァイオリンが消えていた。ただ、倉菜から借りたボウだけが残っていて彼はそれを「有難うございました」と彼女へ返した。
「どうしたん?」
「どうせですから、奏原さんと一緒に浄化して差し上げましたけど」
 ──見上げた空は、晴れ渡っていた。既に、異様な密度を呈していた空気はきれいに済んでいる。
「──もう、好きにして構いませんね?」
 どうぞ、と卍が応えたのを、自由に出られるという返事と見たラスイルはやや神妙な無表情で楽器をケースに戻していた蓮を促した。
「では、寄り道はお終いにしましょうか」
「……ああ」
「お疲れ様──」
 脳天気な声に見送られつつ、師弟はどこへ、とも無く姿を消した。
「……ええっと……、……じゃあ僕も蓬莱館へ……」
 帰ります、とヨハネは、そこで「……どっちでしたっけ……」と視線を周囲に泳がせながら苦笑いをセレスティへ向けた。
「私も戻りますので、一緒に行きましょうか?」
 何か、未だ車椅子を動かす気配の無いセレスティに代わって倉菜が申し出た。片手に、ラスイルから返されたボウだけがやや手持ち無沙汰な風に収まっている。彼女もヨハネも蓬莱館のシノワズリ趣味を反映した浴衣を着た逗留客だ。
「あっ、すみません──、」
「あっちですよ」
「ヨハネ君、後で御会いしましょう?」
 ──モーリス。単に、主に付いて自分も蓬莱館へ立ち入るつもりだから、という意味だが、態々含みのあるニュアンスでヨハネと倉菜を見送っていた。
「あ、私も帰る!」
 ちょっと待って、と急いでレイが彼女達の背中を追った。
「──さてと、……あんたらは戻らんの?」
「色々気掛かりな事がありまして」
 卍の問いに、セレスティは目を細めて受け答えた。
「色々。……ええ、まああなたの事ですが」
「何?」
「一体、どういった経緯でこうして奏原氏の事に関わられたのかと」
「何となく。どうしたもこうしたも」
「奏原氏の果てたのが、歴史上の表舞台には出ないここ蓬莱館だという情報は?」
「高峰心霊研究所の姉ちゃんから貰た。──交換条件で」
「交換条件?」
「それが、奏原の成仏。方法は問わずやけど」
「何故高峰女史はそんな事を?」
「さあなあ……、」
 卍は呟きながら、煙草を取り出して火を点けた。──紫煙は、既にそれを妨げる結界の存在しない蒼い空の彼方へ吸い込まれて行く。
「……ま、都合悪かったんちゃう? ここの温泉自体特殊なもんやし、あんまりそういう、他人にまで影響出るような強い怨念がこびり付いとると」
 ──何や、風呂の清掃要員に使われたみたいやな、と卍は冗談めかして笑った。 
「然しそれではあなたに何の利益も生じないでしょう?」
「んー、……奏原の仏さんは前から色んな所で見とったし。可哀想ーに、死に場所が消えてしもて成仏も出来んで、と思っとったんと……、」
 ニヤ、と含み笑いして、彼は付け加えた。
「──あとはまあ、暇潰し?」
 ──さ、あんたらも早い所、出て行くなり温泉に行くなりしいや、と云い置いて、卍はゆっくりと歩いて行った。彼の行き先は、相変わらず蓬莱館ではないらしい。
「……行きましょうか」
「どうされます?」
 部下の、帰るとも温泉へ、とも考え得る主へ問う言葉に、セレスティは勿論、と微笑んだ。
「蓬莱館へ。折角、ヨハネ君達ともお会い出来た訳ですし」

【XXX'】

 碧摩・蓮の構えるアンティークショップ・レンの扉を、緩慢に押し開けた人間が居た。

「いらっしゃい。──おや、あんた」
 ──久し振りだねェ、と蓮は、銀色に光る青年の右目と視線を合わせて笑みを浮かべた。
「高峰の温泉に行ってたらしいね、……どうだったい?」
「ちょっと通っただけや。……それと」
 女主人が長煙管を吹かしているもので、来客も遠慮無く煙草を加えて火を点けた。
「前に……姐ちゃんが云うとったヴァイオリンやけどな、見たで」
「矢っ張り蓬莱館に眠ってたかい」
「みたいな。……けど、消えたで」
「そう」
 それならばそれで、特に頓着はしない、と蓮は笑みを浮かべたままだ。
「代わりになるや分からんけど、……やる」
 卍が滑らせた小さなカードを受け止めた蓮は、指先でつまみ上げて目を細めた。──カード……。
「集めとんやろ?」

【奏原・弦太郎 / 享年23歳 / 男 / ヴァイオリニスト】

「ヴァイオリニスト?」
「……そ」
 卍は気の無さそうに答えて、アンティークショップ・レンの扉を押した。
「要らんかったら捨てても別に構わんで。……もう、成仏……ちゃうか、浄化された人間のもんやし」
「……、」
 一瞬間だけ、薄暗い店内に嘘のように明るい初夏の日差しが真っ直ぐに差した。埃の粒子がきらきらと輝く先に消えて行った異界の散歩人を見送った蓮は、店内が再び暗闇に包まれた所で再度、満足気な笑みを浮かべながらカードを見詰め、いつものように分厚いコレクションのファイルへ仕舞った。

 ──ここに奏原は、歴史上の事実としての「殺人犯」としてではなく、真実の「ヴァイオリニスト」として眠る事になる。
 
 表向きには認知されなくても良い。
 ただ、ヴァイオリニストとしての奏原に出会った人間の記憶にだけは、彼は彼の奏するヴァイオリンの音色として残る事もあるだろう。

 ──彼達の記憶には、どんな音楽が流れているだろう?

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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【1286 / ヨハネ・ミケーレ / 男 / 19 / 教皇庁公認エクソシスト・神父/音楽指導者】
【1532 / 香坂・蓮 / 男 / 24 / ヴァイオリニスト】
【1883 / セレスティ・カーニンガム / 男 / 725 / 財閥総帥・占い師・水霊使い】
【2070 / ラスイル・ライトウェイ / 男 / 34 / 放浪人】
【2194 / 硝月・倉菜 / 女 / 17 / 女子高生兼楽器職人(神聖都学園生徒)】
【2318 / モーリス・ラジアル / 男 / 527 / ガードナー・医師・調和者】

【個別ノベル】

【1286/ヨハネ・ミケーレ】
【1532/香坂・蓮】
【1883/セレスティ・カーニンガム】
【2070/ラスイル・ライトウェイ】
【2194/硝月・倉菜】
【2318/モーリス・ラジアル】