【タイトル】 眠るなら蒼い月の下で
【執筆ライター】 深海残月
【参加予定人数】 1人〜
オープニング /ライターより /共通ノベル /個別ノベル


●「学園祭」 オープニング

 学園祭、と言う事で賑やかな気配が隠し切れない神聖都学園の敷地内。
 その一角。
 風紀委員詰所(準備中)にて。
 溜息を吐いている風紀委員の学生がひとり居た。
 彼と話しているのは三年の学生。その学生当人は風紀委員でも風紀委員に目の仇にされる問題児でも無いが…諸々の事情により風紀委員の面子とはかなり顔馴染になってしまっている相手である。
 学生の名前は真咲御言。
 風紀委員は重々しく口を開いている。
「…困るんですがね…」
「悪いな。…ほんの僅か目を離した隙の事だったんでね。言い訳の余地は何も無い」
「こんな時に貴方の目が離れたらそれこそあの真咲穣太郎君は何処で何をしているかわからないじゃないですか…普段から平気で校則破ってふらふらしてるのに、ここぞとばかりに資料室とか機械室に行ったりしたらどうするんです? 元々あれだけの忍術使いなんですから我々でどうにかするのもかなりの手間になりますし…ああ、忍術使いと言うより野生児と言った方が正しいですか。うーん…何処で誰に御迷惑を掛けてしまうかもわかりませんね…。ったく…学園祭ともなればこちらもこちらで色々と神経を尖らせてなければならない事が多いんですよ。なのによくも余計な厄介事を持って来てくれましたねぇ、お兄様?」
「ま、確かに反論は出来ないが。でも報告は必要だったろう? …知っているといないとでは随分変わって来る。風紀委員としては余計にね。違うか?」
「まったくその通りですが。…ただ、風紀委員としてはその話を伺ってもあまり人手は割けませんが」
「わかってるさ。本来なら俺だけで捜すと言いたい。ただ、この状況でひとりだと単純に手が足りないと言うのはあってね。兄貴も弟も妹も学祭の準備に追われているようだし頼れない」
「でしょうね。…駄目元で生徒たちから有志でも募ってみますか?」
「頼めるか?」
「…積極的に手伝って頂けるような手が空いている方が居なくとも、風紀委員で声を掛ければ…見掛けたかどうかの情報くらいならそこそこ集められるでしょう。…あの真咲穣太郎君をお目付け役無しで放置したままにしておくのは学園としても困りますからね。そのくらいの手間は請け負いましょう?」
 ここを情報拠点にして差し上げますよ。
「恩に着る」
「まったく…本当に、真咲の末弟は月神さんや草間君に次ぐ厄介な生徒ですよ…」
「………………本当に厄介なのは兄貴だと思うがね」
「え?」
「いや。…宜しく頼むよ」

■■■

 風紀委員詰所(準備中)でそんな出来事が起きている頃。
 …真咲御言の在籍するクラス、3−Cの教室前廊下の窓際。
 部の出し物の準備で忙しい筈のその兄、真咲誠名がひとりの女子生徒――鍵屋智子とのほほんと佇んでいた。
 有態に言うとサボりである。
 ちなみに鍵屋の方は原稿用紙の分厚い束らしきものを持っている。…何かの準備の途中ではあるようだ。
「…先刻、真咲御言が人を捜してる風だったけど、貴方じゃないの?」
「御言が?」
「ええ。人捜し風に自分のクラスに戻って来るなんて、貴方を捜していた以外考えられないじゃない。真咲誠名」
「…鍵屋ちゃんが居るから俺よく遊びに来るもんね」
「もっとも、すぐに何処か行っちゃったけど」
「…穣太郎でも逃がしたかな?」
 ま、いつもの事だけど、と誠名は特に慌てた様子もない。
 鍵屋はじろ、と誠名を見る。…穣太郎。その名はちらほら耳にする。風紀委員から目の仇にされている真咲の――この誠名の末の弟。確かに、主にそちらの面倒を見ているのは次兄の御言と言う話だが。
「…貴方は捜さなくて良い訳?」
「穣は御言の管轄。俺なんぞは手を出さない方が最後にゃ上手く行くんでね。放っといた方がいーの」
「そう言うものかしら。…まぁ、家庭の事情に立ち入る気はないけれど。それより!」
「ん?」
「この論文の何処に文句を付けるのよ!」
「いや、これ下手打つと絶対白けるし。今回の学園祭、その筋の論客も呼ばれてるんでしょ? 我らが鍵屋ちゃんを晒し者にする訳には行かないじゃない?」
「だから何処が貴方にとって問題と思えるのか聞いているんでしょ!」
「あら殊勝」
「折角この私が聞いてあげようってのにその態度な訳?」
「…そっくりそのまま返していい?」
「喧嘩でも売る気!?」
「今の俺で喧嘩を売ってるとするとその論文発表自体がゴングになっちゃうと思うけど」
 質問の時間とか、想像すると怖いよ。
「確かに…」
 やれやれ、とでも言いたげに鍵屋は溜息を吐く。…その予測は、物凄く現実味がある。そのくらいの自覚はある。
 同時に誠名も溜息を吐いていた。
「…繭神、そろそろテンパってるだろーなぁ…」
 が、こちらは何やら言っている事が変である。
「繭神? 生徒会長がどうしたのよ。そう言えば最近あの男も行動が妙に強硬だけど。特に月神詠子に対して…じゃない、こちらを無視するんじゃないわよ真咲誠名っ!」
「…なぁ、鍵屋よ」
「…何よ」
「お前さんは何処に居ようとそのままなんだろーな」
「当たり前でしょ。私は私に決まっているわ」
「そう言える強さは重要だよな。例え自分が『何』であっても。自分を自分のものにしてさえ居りゃ良いんだよ」
「…何かあった訳、真咲誠名?」
「いや。…月の光に囚われたままと解放されるのと――本当は、どちらが良いのかと思ってね」
「何の話?」
「月の光は儚い光。夜にしか現れぬ幻影の姿。確かなものじゃないと思った方が良い。…西洋では月の下で眠ってはいけないって言い伝えがまことしやかにありやがるしな。囚われ過ぎて良い事は無え。だからって無かった事にするにゃ存在が大き過ぎる。隠された意味は月を介する事も多い」
「…また始まったわね。訳のわからん講釈が」
「月の光を不用意に浴びて眠ると死ぬんだよ。そういう言い伝え、知ってる?」
「無論よ。珍しく…頭の硬い連中さえ本気で議論していた、と言う過去の記録もあるくらいの話だものね」
 常識として知っていて当然でしょ、と鍵屋は胸を張る。…鍵屋智子の追い求めている道では確かに常識なのかもしれない。ただ、それを他の人間に求めるのはちょっと難しい話題だ。
 それを承知の上で、誠名はあっさりと話を続ける。
 彼は鍵屋の理論の数少ない理解者でもあり、普通に話が通じる珍しい相手だったりするのだ。
 だからこんな風に廊下でのほほんやってられるとも言うのだが。…ちなみにサボっている事はわかっても、サボっている面子が面子なので気軽に声を掛けられない――注意する度胸が無い生徒が近場をどれだけ通りすがっているかわからない。関り合わない方が得策。そう思われている節がある。
「…その話を借りて言うなら、『あいつ』は本心では『死にたい』のかもしれないな」
「………………貴方の比喩は理解しない方が良さそうね」
「ああ。特に鍵屋ちゃんみたいな立場の場合はね。忘れた方が良い」
「だったら話さないで」
「それもそうだ」
「…話を逸らす為にやってるとしか思えないわね」
「んじゃそれで納得すればいい」
「…相変わらず気に食わない奴」
「ああ、良ければ論文預るけど?」
「何ですって?」
「穏便に済むように添削入れとく」
「誰が頼むのよ誰が!!」
 鍵屋はふん、とこれ見よがしにそっぽを向く。
 誠名はくすくす笑いながら肩を竦めた。
 …だが、鍵屋がむくれているその脇で、誠名はすぐに真顔に戻っている。
 鍵屋はその顔を見ていない。

「………………お前のやり方は見ていて痛いんだよ。繭神」
 誠名の発したそんな微かな呟きも、鍵屋の耳に入る事は無かった。



●ライターより

…終盤に差し掛かったところでダブルノベル突発的に割り込んでみました(おい)
折角、学園祭と伺ったので少し掻き回しに(いきなり迷惑)
幻影学園奇譚は初参戦(…今頃)で同時にラスト参戦になるような気がしますが…。
お気が向かれましたらどうぞ宜しくお願いします。

元々風紀委員にとっては悪名高い『放浪する野生児』こと真咲穣太郎(真咲家の末の弟)が学園祭の準備中〜最中に掛けてひとりでふらふらと各所を飛び回っています。何処でどう迷惑を掛ける事になるかわかりません。
兄の真咲御言の、風紀委員(有志の皆様)への依頼通り、探して、良ければ(出来れば)捕まえて下さい。学校敷地内の何処かに居る事は確実です。好奇心旺盛なので、賑やかそうなところや面白そうなところ、もしくは普段隠されているところ、禁止区域等に行きたがるかもしれません。変な物を集めて持っている可能性もあります。
また、その過程で、オープニング後半にある鍵屋智子と絡んだ真咲誠名のぼやき(…)で察する事が出来るように、繭神生徒会長(と月神詠子)に関する『何か』――に巻き込まれますので、御注意下さい。
このノベルは、オープニング前半にある御言の依頼こと穣太郎捜しを主軸に、オープニング後半の誠名の発言をヒント(って難易度高いかもしれません…)にした真相が絡んできます。
※ちなみに、このシナリオは学園祭グランドオープニングを前提にしています。プレイングの際はそちらの出来事も絡めて頂いて構いません。

取り敢えず狙っている傾向は「どたばたとシリアスの同居」です。
全体の流れとしては長閑→急転→刹那系になるかと。
勿論皆様のプレイングで色々と変わっては来ますが。
ひょっとすると戦闘も有り得ます。
そして戦闘になった場合は、誰と戦う事になるか、誰が敵に回るかはわかりませんので、その辺りひっそり覚悟しておいてやって下さい。

★幻影学園奇譚用のNPC設定は私の発注窓口のサンプルを御参照下さい(PCシチュエーションノベルと同じ窓口サンプルでもあります)。上から三人こと真咲穣太郎、御言、誠名までが確実に出ます。公式では繭神陽一郎、月神詠子は確実。他、状況次第で出たり出なかったり。



●【共通ノベル】

■学園祭準備中、三年教室廊下にて

 …聞き慣れた声が漏れ聞こえて来る。
 学園祭の準備中で慌しい空気が漂う中、ふとそう思った銀髪の男子学生――セレスティ・カーニンガムは声の源を辿ろうと周辺を見渡していた。見渡すと言っても視力は元々弱い。殆ど感覚で探る事になる。
 セレスティが気にした声、話していた声は鍵屋智子と真咲誠名のもの。
 繭神――その、他の場所ではあまり聞かない名字、生徒会長の名。
 その名に絡めた、『月の光』に比された話。
 それらは何か…触れてはいけない――とされている部分に踏み込んでいるように思え。
 ともあれ、興味が湧いた事は確か。
 思っていると、鍵屋と話を切り上げたと思しき誠名の方からセレスティに声が掛けられる。
「お、セレスの兄さん」
「こんなところで油を売っていらっしゃるとは、お暇なんですか? 誠名君」
「いやいや、さすがに気になってさ」
「繭神君の事ですか?」
「…や、聞こえてたか」
 ぽりぽりと頭を掻きつつ、誠名。
「それと、御言君が君を探していたようだとも鍵屋君が仰ってましたね。穣太郎君の件ですか」
「まー、御言の場合それが一番可能性高いと思ってね」
「なかなか、居なくなる事は多いようですよね?」
 穣太郎君は。
「…ある意味日常茶飯事、だな」
 言って誠名は肩を竦める。
「それもそうかもしれませんが…他ならない、君の弟君でもありますよね」
「まぁね。色々複雑な奴だけど」
「意味のある行動だと考えては…おかしいでしょうかね? そう、例えば、何かを探している、と言った…」
「…どーでしょ。あ、そうだ、俺、部の出店の手伝いもしなきゃならなかったんだよね。幾らそろそろ引退したも同然だっつったって後輩連中に任せっぱなしじゃその内顧問に怒られる。っつー事で…鍵屋ちゃんにも振られちゃった訳だし、そちらに専念せにゃ」
「そうですか。ではこんなところで引き止めている訳には行きませんね」
「悪ィな?」
 にやりと笑い誠名は身を翻す。
 何故か、逃げるような態度にも感じたのは――セレスティの気のせいだっただろうか。


■『闇に近いもの』の存在

 …あんな学生は居ただろうか?
 そんな疑問が時々浮かぶ。別に特定の生徒の事ではない、その辺を歩いている生徒に対して唐突に思う事がある。そして同時に、それら疑問に思う相手が――実はよく知っている相手ではと思える事がある。
 学園祭の準備中、応援を頼まれた相手の元へ打ち合わせに向かう廊下で神山隼人(かみやま・はやと)が感じたのもそんな疑問。たった今、すれ違った三年の男子学生。眼鏡の奥に見える深い紫の瞳。…名前も知らない。顔を合わせたのも今が初めて。
 ただ不思議な事に、その学生に対し――奇妙なくらい懐かしさを感じた。
 この――現在は神山隼人と名乗っている彼にとって、懐かしいと思えるような相手など滅多に居ない筈なのだが。彼が懐かしいと思うもの――それは『闇に近いもの』と言う事にもなるから。
 けれど同時に、今の男子学生と何処か似た気配を感じる相手がこの場には別に居たような気もする。
 気になり、暫し記憶と過去の感覚を探る。
 すぐに思い至った。
 今の彼は。
「月神詠子…彼女にも何処か似てますか…」
「…それはある意味で当たりだね」
「おや、真咲さん。…射撃部の出店は下の階では無かったと思うんですが?」
 下の階から階段を上って来たと思しき、同じクラスの真咲誠名の姿を認め隼人はにこりと笑い掛ける。
「う…。ま、その辺のこた忘れてくれ。それより神山、今の奴――気になってたよな?」
 今の奴――記憶に無い男子生徒。
「? ええ。それが?」
「ひとつ面白い事教えてやろっか」
「何でしょう?」
「『あの男は俺を殺した事がある』」
「…はい?」
 さすがに隼人も虚を衝かれた。
 あの男は俺を殺した事がある、とは何事だろう。そう思う隼人の前で、に、と笑いつつ、誠名はそれ以上何も言うな、とばかりに唇の前に人差し指を立てる。
「…お前さんも気を付けな?」
 最後、それだけを残すと、誠名はひらひらと片手を振りつつ廊下を歩いて行く。やがて入った教室は、射撃部の出店になっていた筈の場所。
 隼人は結局、その教室の中に誠名の姿が消えるまでずっと目で追っていた。
「どうやら、何事か…面白そうな事が密かに進行しているようですね」
 微かな声で、ひとり呟く。
 今の誠名の発言、恐らくはただの嘘でも冗談でも無い。
 …態度だけは普段通りにおどけて見せていたが今の誠名の目、少しも笑っていなかった。


■お心当たりの方はお声掛け願います

 …学園祭の準備は…空気のせいもあるのかなんだかんだと忙しい。
 そんな中、シュライン・エマもやっぱり学園祭の準備に追われていた。
 色々と頼られてしまう性質なので――やっぱり色々とやらなければならない事は多くなっている。で、今はちょっとした用事ができた生徒会室へと来た訳で。
 到着し、生徒会室のドアをノックしようとした――その時。
 がらりとドアが勝手に開いた。
「わ」
「…む」
 内側からドアを開いていたのは生徒会長の繭神陽一郎。彼はドアのすぐ外側に居たシュラインの姿を認めるなり、やや当惑した様子で彼女を見下ろした。
「すまない、慌ててしまっていたようだ。…ドアに手を挟んだりしてないな?」
「…ええ。それは大丈夫」
「なら良かった。…では、わたしは急ぐので早々に失礼する――」
 と、言うだけ言って、繭神はすぐさま立ち去ろうとする。その面持ちにあるのは妙な緊張感。以前は――それはまったく無かったとは言わないが、さすがにこれ程では無かった気がするのだが。
 などとシュラインが思っていると。
「――ああ、そう言えばきみは1−Cの真咲穣太郎君を見掛けてはいないか」
 立ち去ろうとした繭神の姿が思い出したように止まり、ふと問われる。
「穣くんを?」
「ああ。御言先輩から風紀委員に知らされてね。例の如く行方不明だそうだ。わたしたちとしても放って置けない事になるから取り敢えず出会う皆に聞いている」
「…ちょっと見掛けてないわね…私も私であちこち駆け回ってはいるけど」
「そうか。なら、もし見掛けたら風紀委員か生徒会役員、もしくは御言先輩に直にでも伝えてやって欲しい」
 今度こそ本当に失礼する、そう残し繭神は慌しく去って行く。
 やっぱり緊張感は変わらない。二階に行った時に偶然聞こえてしまった真咲家長兄さんのお話の通り、何処か痛々しくさえ見えるかもしれない。その行動も緊張感も責任感故の事なんだろうけど、頑張り過ぎて糸が切れたら意味は無いし多少はゆとりを持って欲しいとも思う。
 …難しいだろうか。
 ただでさえ会長は人を拒絶しているような感がある。それは話し掛ければ普通に接してはくれるが、誰に対しても深入りは絶対にしないと決めているような感触が拭えない。何処かで寛げる事があるのか心配になる程。
 会長がそんな人だからか、大した用が無いところで彼に気軽にちょっかいを掛けている――掛ける事が出来ているのは真咲家長兄さん――誠名先輩、あの人くらいになっている。
 彼以外で会長と何か特別に関係がありそうな存在と言うと、思い当たるのは詠子ちゃんくらいしか居ない。
 けれど詠子ちゃんは――気軽な相手と言うよりも、その逆。
 …そう言えば。
 あの時に誠名先輩が言っていた、あいつって。
 もしかして、詠子ちゃんの事、かしら。
 何でそう思うのかわからないけれど。
 詠子ちゃん、最近様子も変だし。
 学園祭が近付くにつれ、姿もあまり見掛けなくなっている。
 何かあったのか、心配なんだけど…。

 ………………月の光を不用意に浴びて眠ると死ぬ、その話を借りて言うなら、『あいつ』は本心では『死にたい』のかもしれないな。

 具体的には何の事だかわからない。けれど、穏やかでない比喩だとは思う。
 どうして、詠子ちゃんの事だと思うんだろう。



 1−C。
 その教室のドアから中を覗き込んだところで溜息を吐いていたのは三年の男子学生。見覚えのある相手だと気付いた1−C在籍である綾和泉汐耶(あやいずみ・せきや)は、教室内での準備の手を止めた。
「どうかしたんですか? 真咲先輩」
「…穣太郎は戻ってないだろう?」
「…『また』ですか」
 穣太郎の失踪。
 汐耶も小さく息を吐く。いつもの事と言えばいつもの事だが、こんな時まで…。
「…ああ。一応訊くが何か心当たりはないか?」
「さあ…。予め人手としては期待してませんから…誰か穣太郎君見掛けた人居るー?」
 真咲先輩――真咲御言の話を受けつつ、その後半で教室内に呼び掛ける汐耶。が、返答は皆同じ。
「知らなーい」
「俺も見掛けてねぇけど」
「何にしろメシ時になりゃ綾和泉んトコ来るんじゃね?」
「あ、言えてる」
「………………だ、そうです」
 諸々の返答を引き取り、やや嘆息混じりで纏める汐耶。…この距離では御言にも直接全部聞こえている訳で改めて伝え直す必要も無い。
「了解。…いつも済まないな」
「いえ、もう慣れてますから」
 メシ時。そう、学校でのお昼時、穣太郎は普段から汐耶の御世話になっている。…お昼時になると何処からともなく汐耶の元に出没する。
「お昼に穣太郎君が来たら、携帯メール送ります」
「…本っ当にいつも済まないな」
「ある程度足止め出来るとは思いますけど」
 …私では捕まえられそうには無いのでそれ以上は何ともしようが。
「わかってる」 
 それだけ残して御言は早々に去って行く。お昼時には汐耶のところに来るだろう、そうは言ってもそれまで放置しておくのがまた気懸かりでもある訳で。捕まえるなら早い方が良い。
 だから結局、御言はここで留まっていない。
 その背中を見送ってから、汐耶はふむ、と考える。
 お弁当。
 今回は、たくさん用意した方が良いかも知れないわね?


■学園祭、本番

「…やはり穣太郎君が逃亡した、と言う話は当たりだったようですね」
 先程風紀委員さんに伺いましたよ、とセレスティがぽつり告げている。学園祭が始まってからの事。彼が来ていたのは射撃部出店の射的&輪投げ屋。その隅の、店番や休憩の為に学生机と椅子が幾つか置いてあるところ。
 そこには真咲誠名ともうひとり、二年の男子学生――射撃部所属の誠名の後輩、杉下神居が居る。実質的な店番――客が来店した際の様々な業務を執り行っているのは主に杉下の方。
 部の先輩である筈の誠名はただ居るだけ。セレスの兄さんもお客様になるから無碍には出来ないでしょ、などと言い訳しながらセレスティとのほほんと寛いでいる。
「そう言やさっき、演劇部で発表してた劇に穣太郎が乱入したとか言ってたな」
「…サーカスの曲撃ち染みた事を披露して実際の劇よりも余程観客の拍手を攫っていたとか」
「SHIZUKUの舞台で一緒に踊ってたって話もあった」
「…その時は捕まえようとした人たちが気の毒な状況になっていたようですね」
「で、御言は何処だーって各所の裏方さんが騒いでいる訳ね」
「…皆さんが捜しているのは御言君ではなく穣太郎君ではなかったんでしょうか」
 苦笑しつつ、セレスティ。
 出店の喫茶店で買って来た紅茶を飲みながら。…ちょっとしたティータイムの風情になっている。
「ま、穣の手綱は御言が持ってる訳だからねぇ」
 殆ど他人事のように、誠名はこれまた出店の喫茶店で調達したスコーンを摘んでいる。一方の杉下はと言うと先輩方の行動には殆ど諦めている節がある。
 そんな杉下が溜息混じりにドアを見た時、そこにまた人影が現れた。客人。
「いらっしゃいませー…」
 と。
 声だけは掛けたが直後に杉下は停止。
 来店したのは、片眼鏡を引っ掛け長い髪を後ろで緩く纏めたスーツの青年。その風体から立ち居振舞いひっくるめて執事のような雰囲気の美丈夫である。外部の方か、それにしてもあまりこんな場所に来そうな方では無い。
 と、咄嗟に思うがよくよく見ると。
「…お、神山じゃん」
「素敵な格好をしてらっしゃいますね、神山君」
 執事風の彼の正体は、誠名とセレスティのふたりと同じクラスに当たる、神山隼人。
 隼人は一拍置いてからのその反応に苦笑した。
「真咲さんだけではなくカーニンガムさんまでこちらにいらっしゃるとは。ああ、これは出し物の応援で着せられたものです」
 まぁ、そちらの当番は終わったので――少しは私もこの学園祭と言う空気を満喫してみたいなどと思ってふらふらと。こちらには真咲さんがいらっしゃったなと取り敢えず顔を出しに。
 セレスティはそうですか、と受けてから、隼人に向け微笑みかける。
「なかなかに趣味が良い」
 その格好は。
「私もそう思いまして。折角許可も頂いている訳なのでたまには良いかと…そのまま失礼しています」
 にこにこにこ。
 微笑む姿に杉下は思わず嘆息。言われてみれば見覚えのある顔。…そしてその手に――セレスティらが既に持ち込んでいるものと同様の代物――つまり飲み物や菓子の類――を見付けてしまえば。
 この先の状況が簡単に予想出来てしまう訳で。
「…誠名先輩」
「ん?」
「…ここは喫茶店でも一般の休憩所でもないんですが」
「まぁまぁ、無粋は無しにしましょうよ、杉下さん」
 折角の学園祭なんですから。
 と、誠名からの答えが返る前に、にこやかな態度のまま問答無用で広げられたのは隼人の持参したクッキー。私も御一緒して良いですか? とさりげなくも自然に空いている椅子に座られ、当然の如くどーぞどーぞ、歓迎ですよ…などと既にティータイムだった方々に言われてしまえば…後輩としては諦めるより他は無い。



「…真咲さんのなかなか楽しい末の弟さんの事ですか」
「ええ。あちらこちらで存在の確認は出来るんですが、結構本気で掛からないと…いえ、本気で掛かっても捕まえられないみたいですね」
 セレスティが隼人に説明する。特に捜す事も無く、ただ居るだけでも少しずつ聞こえて来る真咲家末弟の賑やかな所業。そんな後になっての情報はそれなりに来るが、次にどんな行動を取るかの予測は難しい模様。
 確かに、放っておいたら責任者や関係者、被害にあった当事者としては困るだろう。
 客観的に状況を聞いたり見たりしているだけなら面白いとも言えるが。
「…食べ物ででも釣れませんかね?」
 試してみるのも面白そうに思えますが…お兄さんとしてはどう思われますか?
 と、セレスティから振られ、誠名はうーんと考える。
「って言ってもね、場所が神聖都でそれも学祭だからなぁ。…穣が釣れるかどうかは何とも」
 何となく言葉を濁す。
 それは彼ら三年の持ち寄っている菓子や紅茶の類を見ればわかる事。学園祭の出店で仕入れたもの、そうは言ってもどれも味や作りは本格的である。…こんな物がそこかしこにあっては確かに何処に来るとは言い切れない。
 と。
 考え込んだところで、またひとり見覚えのある顔が射的&輪投げ屋さんに来店していた。
「食べ物で釣る…と言う話なら、1−Cの綾和泉のところで昼飯を用意してる」
「おや、御言君じゃないですか」
 御言――真咲さんちの二番目のお兄さんはセレスティの声に軽く応じている。
「…それより、ここでは穣太郎の姿は見掛けてないか?」
「ええ。話だけは聞こえてきますが」
 各所で色々と賑やかな騒ぎを起こしてらっしゃる、と言うお話をね。
 セレスティのその言葉に、御言は頭が痛そうな顔をする。
「ああ…後で謝罪に行かないと」
 既に御迷惑を掛けてしまった諸々の方々に。
「御苦労様です」
「…こうして直に『保護者さん』にお会いしてみると、色々と大変そうですね。私もお手伝いしましょうか?」
 苦笑しつつ隼人。
「頼めるか?」
「ええ。色々と捜索に便利な力も持っていますから」
 言いながら隼人は紅茶を傾けている。
 その時、彼のその肩に奇妙な生物――小柄な、悪魔らしきものが霞んで見えたのは気のせいだっただろうか。思った時にはその小柄な悪魔らしき姿はもう何処にも無い。
 が、程無く。
「…次は喫茶店に入って行くようですね。それも私たちが立ち寄って来たところ…みたいですよ?」
 くすりと笑いながら隼人は話し出す。
「ああ、やはりそうです。これと同じもの食べてらっしゃる。末弟さん、ウェイトレスさんたちでは捕まえるのは無理みたいですね?」
 にこにこと微笑みながら、意味ありげに御言を見る隼人。…今し方、彼の肩に留まっていたのは捜索用にと喚んだ使い魔。その使い魔はじっくり時間を掛けて捜索するまでもなく、殆ど数秒で穣太郎の姿を見付けていた。
 そして、使い魔に見えた状況をそのまま隼人は御言に伝えた訳で。
 御言も御言で即座に察し、喫茶店だなと短く確認して教室を飛び出している。
「…とは言え、やっぱり難しそうですねぇ」
 慌しい背中を見送った直後、既に隼人の目には喫茶店の窓から外へと軽々飛び降りている穣太郎の姿が見えている。…喫茶店を出している教室のある階は校舎五階なのだが…特に危なげはない。
 先程御言に伝えた時点で「お手伝い」は取り敢えず終わった気もするが、この相手は見ていて面白い。そう思った隼人はちらりと目の前のセレスティと誠名を見る。
「もう少し続けてみましょうか?」
 実況中継。



 優雅に紅茶が傾けられている射撃&輪投げ屋さんの一角。
「…ああ、サークル棟の一角で保護者のお兄さんに見つかってしまったようですが――また逃げてますね。と言うか、弟さんの方は単純に追いかけっこを楽しんでいる節もありますか…」
 隼人ののほほんとした実況が暫く続けられていた。
 格好の茶飲み話のネタである。
 …が。
 そんな調子で暫く続けた後、隼人の声がふと止まった。
「…また校舎に戻って来たみたいですが――見えなくなりましたね?」
「地下ですか?」
「さて…」
 …使い魔からの情報が切れた。
 恐らくは、地下の何処か。…禁止区域。
 ふむ、と隼人は考え込んだ。
 …これは直に行ってみた方が良いでしょうか?
 思いつつ腰を上げようと考えて――行動に移す前に隼人は結局止めた。
 動く前に穣太郎の姿が使い魔の把握できるところまで戻って来ている。それも、見えない間に特に何かあったとは思えない。今まで通り特に変化無し。
 …その、同じタイミング。
 誠名の手が、ぽむ、と後輩君こと杉下の肩を叩いている。
「後は任せた。…ちょっと用が出来ちまったみたいだ」
「誠名先輩?」
 唐突に言われ、杉下は目を瞬かせる。そんな杉下の事も構わず、誠名はセレスティと隼人に適当に寛いでってくれ、と軽く声を掛け、軽やかに射的&輪投げ屋営業中の教室から出ていく。
 直後。
「…あれは、繭神さんですよね?」
 誠名の姿では無く、偶然ながら窓の外が先に視界に入っていた隼人がふと呟いている。
 穣太郎を追っている御言ではないが、誰かを捜している風にも見える――何か、思い詰めているようでもある?――繭神の姿が窓の外、眼下に確認出来る。
 …それは、隼人が立ち上がろうとして止めた時、即ち――誠名が杉下の肩を叩いたそのタイミングとほぼ同時に、そこに歩いて来ていたのだが。


■幕間〜最早、時間は

 わかってる。わかってるよ…!

 …叫ぶ声が泣いている。
 …言われる事はわかっていた事。それでも認めたくない事で。

 キミに言われなくたって!
 ボクが我侭なんだって事くらいわかってる!
 でも。
 でも!

 …月を映した色彩の瞳。
 …泣きそうな顔がそこに在る。それでいて、泣き方がわからない――そんな顔でもあって。

『約束』を違える気は無い。
 無いけれど。
 ここまで来てしまった以上、触れ合い、語り合うなど――『楽しむ』など。
 最早無理とは思わないのか。

 …揺籠の声が耳を刺す。
 …冷たく徹した言葉の前に、長い黒髪が、翻る。

 月の光は狂気を導く。
 ――――――理性の箍はいつまで保つか。


■草間武彦のちょっとした隠し事

 校舎、屋上。
 常日頃から憩いの場として用意されているその場所は、学園祭でもその用途に変わりは無かった。むしろ格好の休憩場所として利用されている。普段より人が多い事は多いが、ベンチ等が用意されている場所を除くならあまり混雑もしていない。
 そんな屋上の一角。
 ぼーっと空を見上げている草間武彦がそこに居た。
 いつもの短ランではなく無造作にジャージの上着を羽織り、張り巡らされている高いフェンスに凭れている。
 そんな彼の視界に、見慣れたセーラー服が入って来た。その主――シュラインはどうやら誰かを捜している風だったが――武彦の姿を認めるなり近くまで歩いて来る。
「こんなところに居たんだ、チョコ」
「…今更クラスの出店の当番でもやらせようって魂胆か?」
「ううん。そうじゃなくって」
「なら、何だ?」
「っと…チョコ捜してたんじゃなくって、準備で生徒会に行った時に穣くんの捜索願が出てたから」
 それも準備の時だけじゃなくって現在進行形で捕まってないみたいだから、気になって私も捜してた訳。
「…真咲んちも毎度大変だな」
 ぼそ、と呟くチョコ――武彦に、シュラインも苦笑する。毎度。確かに毎度の事。行動が把握できていないと大変なのもわかる。わかるが――彼の場合何をしようとどうも憎めない。
 結果、捜索願が出されても本気で捜すべきか否か、微妙に迷う事も多い。
「そんな訳だから、折角見付けたところでチョコの方を先にした訳」
「先?」
「…取り敢えず、大丈夫そう…よね?」
 怪我。
 そこまで具体的に言わないまま、シュラインは武彦の様子を窺う。大型の獣に引っ掛かれたような胸の傷痕。今、着ているのはジャージの上着。武彦当人は平気そうな顔をしていても、その事実だけで胸元が――制服が切り裂かれていた事を、四筋の傷を否応無く思い出させる。
 確かに傷の程度自体は浅かったが、形が形。後少し深かったなら。そう思ったら恐ろしくなって当然な形の傷。
 …それでいて武彦は怪我の原因について何も言おうとしなかった。
 不自然なものを感じはしたが、その時はシュラインも目の前の怪我の方に動転してしまい、うやむやのままになっている。
「…ああ、気にするなよ。大した怪我じゃない」
「ならいいけど…」
「それより…月神の方が」
 と、そこまで言いかけ、武彦は止まる。
 シュラインも停止した。
 …今の話の何処から月神――詠子ちゃんが出てくる?
「って、詠子ちゃんがどうかしたの!?」
 まさか詠子ちゃんもチョコみたいな――チョコ以上の怪我してるとか!? 大丈夫なの!? とシュラインが声を上げる。
 武彦はそこで、ち、と舌打ちした。
「…違う、そうじゃない、月神は――違う」
 喋り過ぎた。そうとでも言いたげな態度で武彦は口を噤む。
 …何か、変だ。
 あくまで違うと言うのなら。
 今その名が出た意味は、何?
「ねぇ」
 シュラインの口調がきつくなる。
「何が、あったの?」
「…」
「お願い教えて。誤魔化さないで」
 きっぱりと言い切る凛とした口調。
 暫し武彦は躊躇うが、こうなったシュラインは絶対に退かない。その事はもう昔から知っている。
 …昔から?
 ふと違和感を覚えるが、それは大した事じゃない。
 今は――少なくとも今は、答えたくなくとも、シュラインの目に答える方が先。
 長い沈黙の後、心を決めたように武彦は漸く口を開く。
「…違うんだ。少なくとも、好んでした事じゃない…やろうと思った訳じゃない、それだけは…直接見りゃわかる。信じろ。それだけは先に言っておく」
「…チョコ?」
「月神、なんだ」
「…え」
 武彦はジャージの上から自分の胸元を――傷の位置をそれとなく触れる。
「この傷を付けたのは、月神だ」



 射的&輪投げ屋さんにて。
 三年の中にたったひとりだけ居る二年生男子の店番は現時点の売り上げの確認中。あまり客が来なくなった隙間の時間で店は小休止の最中。
 三年生男子ことセレスティと隼人は、先程退席した誠名の言葉に甘えてそのままそこで寛いでいる。隼人は実況は止めたが穣太郎に付けた使い魔は外さず、セレスティは新しく注いだ紅茶でごく簡単な占いを試みていた。
「…色々と、気になる事が増えたように思えますよ」
「確かに、そんな気はしますね」
 両方でぽつりと呟くと、互いに様子を窺うように隼人とセレスティはどちらからともなく目を合わせる。
「ところで、カーニンガムさんは…月神さんと何処か似た空気を持つ三年生の男子を御存知ですか?」
「…誠名君の事ではありませんよね?」
「ええ。…ああ、そう言えばあの真咲家長兄さんも少し似ていると言えますか」
「…そうなんですよ。ですから誠名君以外にとなりますと…いや、知っているかもしれません」
 神山君の言うその人の事も。
「…ですか」
「ええ」
 隼人の問いに、謎めいた答えを返し頷くセレスティ。
「ところで…そろそろ、御言君の仰ってました綾和泉君のところに…お邪魔しに行ってはみませんか?」
 穣太郎君が現れそうです。
 …それから何か、興味深い出来事が起きるかもしれませんから。
 占いでどんな卦が出たのか、セレスティはそう告げる。


■地下にて

 屋上で草間武彦と別れた後。
 2−A教室に戻ったシュラインはいきなり数名のクラスメイトにもみくちゃにされていた。何事かと思えば救援依頼。曰く、地下に行かなきゃならない用事が、と半分泣き顔のお嬢様方の訴えが。
 もう少し細かく聞くと、諸々の事情で仕方無し地下に行った際、急に機械室から物音がして驚き、その時に持っていた――必要なものが入っているバッグを放り投げて逃げて来てしまったらしい。
 ならば改めて取りに行けば良いだろうと思うが、怖くて実行に移せないと言う話。
 ふと男子を振り返ると、さりげなくもこちらの話から逃げている気配がそこはかとなく。
「…別に良いけどね」
 シュラインは小さく溜息を吐きつつぽつり。この手の事は慣れている。正体不明の怪しい物音程度で怖がるようなシュラインでもない。怪奇現象であろうとなかろうと、具体的に害を為されなければどうと言う事も無い。
 …そんな訳で。



「…これ、かな」
 廊下に無造作に放り出されていた大きなバッグを確認し、シュラインは膝を折り屈んでそれを手に取る。場所は校舎地下の廊下、学園祭の最中だと言うのに薄暗く人気は無く埃っぽく…確かに不気味と言える。とは言え特に何がある訳でも無い。すぐそこには機械室、もう少し奥に行けば資料室のドアがあるだけ。
 …穣くん、この辺りに居たりする可能性もあるかな?
 ふと思い、シュラインは荷物を持ち上げたところで周囲を窺ってみる。耳を澄ます。足音は、衣擦れは、呼吸は。心音は聞こえないだろうか。人の気配は無いだろうか。聴き慣れた音は。
 …そんな感じで少し続け――やっぱり無いなと諦め掛けた時。
 聴こえた。
 刹那。
 わーい、と、場違いに明るい声と共に、ブレザー夏服のシャツを着た少年が何処からともなく降ってくる。真咲家の末弟、真咲穣太郎当人。直前に聴こえた心音ですぐ近くに居る事を一応察してはいたが…現れた方向が予想外。さすがに少し驚いた。
「エマさんだー」
 にこにこにこ。
 で、シュラインの目の前に回り込んで来、ちまっと座り込むと満面の笑みで喜んでいる。
 その様子を見て、漸くシュラインもほっとした。
「よかった、無事だったんだ」
 チョコみたいな変な怪我して無いかどうか気になってたのよね。
「?」
「無事なら良いの。それより…」
 食べる? とシュラインがさりげなく差し出したのは封を切ってあるシガレットチョコレートの小箱。ポケットに入れたままだった物。…草間武彦が年中銜えている物と同じである。
 穣太郎はありがとー、と一本取って、くるくる剥きつつ素直にもぐもぐ。
 それを見ながら、シュラインも取り敢えず穣太郎の目の高さと合わせるように膝を折り身体を屈めた。…こんな場所だが――まぁいいか。
「何か面白い事見付けた?」
「うん。色々あって楽しい。御言にいも遊んでくれるし。それから…きれいだけどこわいお月さまのかけら」
「…それって」
「これ」
 に、と笑いつつ穣太郎は淡い光を放つ、何かが砕けた欠片のような石――繭神陽一郎が密かに集めている石と同じ物だ――をひとつ透かして見せる。
「きれいでしょ」
 満足そうにそう告げる。
「…えーこもきれい」
 おんなじひかり、すごくきれい。
「――まだまだ僕も遊びたい」
 穣太郎はそう言うなり、シュラインの脇からぴょこんと立ち上がる。
 そして。
「もうすぐお昼。だからまたね☆」
 言い置き、穣太郎は足取りも軽く駆けて行く――行こうとするがそこで待ってとシュラインは咄嗟に呼び止めた。なーに? と答えてくれる。…良かった。
 思ったそこでシュラインはまたポケットを探り、はい、と穣太郎に絆創膏を差し出している。気を付けてねと続けられ穣太郎は暫しきょとんとしていたが、やがてにこりと笑い受け取った。
 で、ありがとー、と声を返すなり、今度こそ駆けて行く。…早い。
 シュラインは少し考える。
 今の発言。…石の欠片、綺麗だけど怖い、詠子、同じ光、まだまだ僕も遊びたい――。
 と、それはそれとして。
「お昼…お昼ご飯、穣くん…1−C…」
 1−C…汐耶さん。
 思い至ったシュラインは、ぽむ、と両手を合わすと、改めて地上へと向かう事にした。
 …穣くんが次に…否、少なくとも近い内に向かうだろう場所は、1−C。


■幕間〜君は自由になればいい

 貴方はやりたいようにすれば良い。
 誰に何を言われようとも。

 …静かに告げる紫の瞳。
 …照らされたのは一縷の望み。縋る瞳は月色の。

 まだ貴方は我慢している事があるのではないですか。
 識っていますよ。
 貴方自身が、怖がっている事。
 ですが…『それ』は、いけない事なんですか?

 …優しい声が彼女を包む。月の光を否定もしない。
 …彼の言葉は酷く優しい。本能にまで沁み込んで行く。

 貴方が貴方のままで居てはどうしていけないんですか?
 都合の良い時だけではなく、悪い時さえも受け止めてくれてこその友人ではないですか?
 誰にも、何も隠さなくて良いんですよ。
 逃げなくて良いんですよ。
 貴方を否定する者に、自分を譲る必要などないんですよ。
 ほら…僕が、貴方の手を取って差し上げますから。

 早く、揺籠から足を踏み出してしまいなさい。

 …月の光は俄かに途惑う。
 …『約束』までは、後少し。

 言葉は気まぐれ、裏と表と。
 ――――――破壊の闇は月を呑み込む。


■野生児さんの来訪、お昼時

 お昼時の1−C。
 ぺらりと文庫本のページを捲っていたのは男子ブレザー夏服シャツを好んで着ている一名の女子生徒――綾和泉汐耶。クラスの出し物は特に飲食関係でもないのでこの時間になると客人もあまり来ない。時折、昼時だから空いているだろうと見込んで来る抜け目の無いお客様が居る程度。
 そんな訳で、特に出歩きもせずのんびり読書をしている彼女にお鉢が回ってきている。正式な店番ではないが、お昼の間だけ☆ 等とクラスメイトに甘えられ結局なしくずし、人待ち読書と店番を兼ねる事になってしまった。…まぁ、どちらにしろこの場に居続ける事に変わりは無いので、溜息は吐きたくなっても特に文句を付ける気も無い。しょうがないかと言う気持ちが大部分。
 …ただ、私も私で暇だから読書してるって訳じゃなく待機をしている訳だから、事が起きたら店番よりそっちを優先するからねとは本来の店番当番にきっぱり言ってある。
 ちなみに彼女のその脇、机の上には広げられているお重。水筒も用意され、なかなかに立派なお弁当。…広げられていると言う通りそこには既に中身を突付いている人もいる。先程、連れ立って現れたセレスティと隼人のふたり。汐耶は本を片手にしつつも、御二方との情報交換も怠らない。特に隼人は…穣太郎の身柄を確保するのは難しいのかもしれないが、リアルタイムで彼の行動を把握する事も出来る訳なので。
「…今、一応校舎には来ていますね。階段を駆け上っていますが」
「そうは言ってもこの教室は四階ですからね…」
「まだ何処に向かうか…予断を許さない状況になりますか」
「…おや、人を転倒させてしまって謝っているみたいです。風紀委員さんがいらっしゃいましたね…偶然、近くを巡回なさっていたようだ…彼らに捕まってしまうような事は無さそうですが」
 隼人は小さく笑う。
「そこで穣太郎君が簡単に捕まるようならきっと誰も苦労はしないんでしょうね…」
 同意し、はぁ、溜息を吐く汐耶。
 と。
 廊下から教室の中を覗く顔が居た。
 穣太郎では無く女子学生。
「…やっぱり」
 何事か納得したらしい廊下の彼女が着ているのは夏用セーラー服。
 汐耶は目を瞬かせた。
「エマ先輩?」
「穣くんがお昼ご飯って言うならここかなって思ったら…元々そのつもりで用意してあるみたいね?」
「穣太郎君に会ったんですか?」
「ええ。ついさっき」
「――っと、三階の上り階段を来ましたね」
 遮るように隼人の声。三階上り階段。となると居場所が近い上に、ここまで来る行動からして一直線にこの教室に向かっていると見て取れる。
「じゃ、そろそろ間違い無さそうですね――」
 受けて汐耶が言い、携帯電話を取ると保護者なお兄さんへと予め用意しておいたメール送信。
 …した、直後。
 予想通りに元気な声が飛んで来た。声とほぼ同時にがらりとドアが開けられ、そこから身軽な影がひょこりと飛び込んできた。
「綾和泉さーん、ごはんー☆」
 …穣太郎である。



 口の周りに付くのも構わずお重の中身をかっこんでいる穣太郎。事前に頂きまーすと礼儀正しく挨拶はしたが食べ方は礼儀正しいとは言えそうに無い。シュラインはそんな穣太郎の口許をティッシュで拭いたりして和んでいたりもする。そんなに甘やかさなくても、と汐耶は苦笑。一方、そう言えば特にどんな食べ物がお好きなんですか? 等々、セレスティが興味からか色々訊いている。穣太郎もそれを受けて考え込んだり質問によっては即答したりと機嫌は良い様子。隼人もそれらの質問に色々と合いの手を入れだし、彼らのコンボが結果的に「時間稼ぎ」の一端にもなっているのは気のせいか。…て言うか野生児を捕まえろと言う話をさて置き、ただひたすらに長閑なお弁当タイムになっている。
 が。
「…済みませんが御言先輩は」
 唐突に、苛立ちを無理矢理押し殺しているような硬い声が割り込んだ。
 その時には声の主――繭神と彼が引きつれている数名の学生――風紀委員らが1−Cへの出入り可能な場所をすべて、それとなく警戒して張っている。
 …但し、その割には何故か穣太郎を捕まえようと言う気配は無い。下手に行動を起こさず、一挙手一投足をじっと見極めようとしている節がある――とは言え、肝心の見られている穣太郎の方はのほほんお重をかっこんでいるのだが。巡回の風紀委員がぞろぞろ居ようと生徒会長が居ようとあまり気にした様子も無い。
 ともあれ、ぞろりと居並ぶ風紀委員らを見、何のつもりかと思いながらも汐耶が口を開こうとする。…何故なら繭神お伺いの当人には先程召喚メールを出している。
 隠す理由も無いので汐耶が素直に答え掛けたその時、隼人が、そ、と汐耶の前に手を差し出す。意志としては遮るように、けれど、あくまでさりげなく。
「二番目のお兄さんは…来るかもしれないし来ないかもしれません。少なくとも今ここには居ませんし来る予定も具体的にはありません」
 来る可能性が無いとは言えませんが、いつ来るとは断言出来ません。
 いきなり割り込まれ、汐耶は目を瞬かせる。彼女のその肩をセレスティがそっと触れた。その時点で何だかよくわからないが黙っていた方が良いらしいと汐耶は気付く。
 繭神も隼人の科白に素直に頷いた。…隼人らの思惑に薄々気付いているような節もあるが、それでも良いらしい。…ただ、苛立ちは募っているようで、目の色だけは妙に険呑だった。
「…そうですか、では仕方ありませんね」
 言って、1−C教室包囲網を敷いている風紀委員たちに合図を送る。と、あっさりとそれらが解かれた。
「ひとつお願いがあります。…もし、穣太郎君と御言先輩が同席している場面に出遭ったなら、その時は早急にわたしに連絡を下さい。…彼らに頼みがあるんです」
 …今は皆さんの目があるようですし、大人しく食事をしているようですから――当面、穣太郎君の件だけはお任せしておきますよ。
 と、それだけを残し繭神と風紀委員はあっさり撤収。
 ターゲットだった筈の穣太郎は何事も無かったようにお弁当を食べている。
 それ以外の面子は顔を見合わせた。
「穣太郎君じゃなくて真咲先輩…の方がどうかしたんですか?」
 汐耶は素朴な疑問を三年の先輩方にぶつける。
 そんな汐耶に対し、いえ、と曖昧に隼人は頭を振っていた。
「今は、彼らと繭神さんとは距離を置いておいた方が良い気がしたんです。…ただの勘なんですがね」
 言って、隼人は困ったように微笑んで見せる。
「…距離を置いて…ですか」
 あまり納得行かないながらも、自分も同様、確かに『何か』を感じてはいるのか隼人の判断を否定し切れない汐耶。結果、それ以上何も続けられない。
 一方、シュラインはうーん、と考え込むような顔をする。
「…今の質問、誤魔化す必要まである事だったのかしら?」
「…なら、どうしてエマ君は黙ってらっしゃったんです?」
 今の質問――そのやりとりに。
 セレスティの静かな問いに、シュラインはすぐに言葉を返そうとするが――。
「それは――」
 ――答えが見付からない。よくわからない。
 強いて答えを探そうとするなら、皆と同様、漠然とした理由とも言えない理由、になる。



 結局、何処か釈然としないものを残しつつも一同はお昼を食べている。
 更に言うなら汐耶がメールで呼んだのに御言が来ない。
「そう言えば、こう言う場には前は詠子ちゃんよく来てたけど最近来なくなったわよね」
 …そんな中、ふと呟かれる言葉。
「ああ…射撃部さんのところで休ませて頂く前は私も結構歩き回ってましたが…見掛けませんでしたね?」
「私が応援に言った先の出し物にもいらっしゃいませんでしたよ」
「確かに、以前は穣太郎君とも比較的良く一緒に遊んでいたのを見掛けていたような気がしますけど…最近は…」
 見掛けませんね。
 …彼女だったら、学園祭なんて言ったら張り切るんじゃないかとも思えますけども。
 と、誰ともなく同意する。
 月神詠子。その名の少女は――面白そうな事、楽しそうな事と見れば何でも、見逃すのが惜しいとばかりに何処にでも出没していた。…少し前までは。
 なのに、ここのところ――人を避けている風がある。様子もおかしい…らしい。
「…えーこ、ホントは来たい筈なのに」
 もごもごと食べながら、ぼそ、と呟く穣太郎。
 妙に当然のような語感のその科白。まるで、彼女が「来れない」理由を知っているような、言い方。
「何か知ってるの、穣くん?」
 取り敢えず訊いてみる。
 が。
「あー、御言にいだー☆☆」
 今度は漸く待ち人の真咲家次兄が1−C教室に現れた。…穣太郎の反応はそちらが先だったよう。
 ぶんぶんぶんと力一杯手を振っている。
 それに軽く答えつつ、次兄――御言は遅れてすまん、と声を掛け入って来た。
「…ついさっき、ここで繭神先輩が真咲先輩の事捜してらっしゃいましたけど?」
 そんな御言に汐耶は取り敢えず知らせてみる。
 と。
「…知ってる」
 当然の如く頷かれた。
「…途中で会ったんですか?」
 生徒会長に。
「いや、繭神が居たからメール貰ってすぐこちらに来られなかったってだけの話だ」
「…ちょっとばかり物々しかったですからね」
 セレスティは苦笑する。
 が、当然のように流された御言の科白はよく考えると微妙に変だ。繭神が居たから来られなかった、つまりは居なければすぐに来られた、その意味は…皆の根拠の無い判断――距離を置いておいた方が良い、その事が少なくとも御言にとっては正しかった事になる。
 初めは、御言こそが風紀委員や生徒会まで巻き込んで穣太郎を捜していたのでは無かったか。ならどうして繭神が居ると、この場に来るのに都合が悪い?
 と。
 そのタイミングで窓の外――校庭の一角、その空気が変化した。
 ざわめきが聞こえる。
 何事かと一同も窓の外を見る。人だかり。…救急車を呼べ、そんな声まで聞こえて来る。
「救急車? …誰か、怪我でもしたのかしら」
 窓から覗き不安げに言うシュライン。
 直後。
「…もう死んでいますよ、あの中で倒れている人」
 真顔でぼそりと告げる隼人。え、と教室内の一同は隼人を見た。…隼人は穣太郎捜索の為喚んでいた使い魔でいち早く人だかりの中心を確認している。そこには何者かに切り裂かれ血塗れで倒れていたひとりの生徒。見るものが見れば死んでいるとすぐわかる。傷と出血からしてショックでの即死だったろう。動揺しているのは目撃者。わかりやすい悲鳴を上げる者もいないのは…あまりに突然の事で現実感に乏しいのか。
 その人だかりを見、隼人の科白を聞いて――穣太郎は考えるような顔をする。
 直後。
「…行くな穣太郎」
 妙に鋭い次兄の声の方が先だった。
 が、その声とほぼ同時、意識するより前に穣太郎の姿は掻き消えている。文字通りその場から消えた。続いて何故か1−Cの周辺も俄かに空気が変わる。学祭故のお祭り騒ぎの延長、それとは何処か違う険呑な、何か。
 更に、時を置かず廊下側から聞こえて来た誰かの――今度こそ叫び声、それが「望まれざる祭」の嚆矢だった。


■幕間〜不器用過ぎる君たちに

 やっと捕まえたと思えば前より各段に悪化してやがるかよ。
 いい加減に手前に気付きな。
 役目がどうのって話じゃない、手前自身は何を思ってる?

 …容赦無く、罵る声は何処か優しく暖かく。
 …聞いてはならぬと無意識が言う。

 先輩には何も関係無い事です。
 知る必要も、関る必要も無い。それはこれまでもこれからも同じ事。これはわたしたちのみの問題。
 貴方の――貴方たちのしている事こそが余計な事だと何故思わないのですか。ただの御節介に過ぎないのに。

 …受ける瞳は決して合わせず。
 …月の名を持つ予定外。
 …わかっているのかいないのか。

 ――――――月の光とその真実を。
 ひとの想いと使命の狭間で――――――。

 …揺籠は覆す事を考えはしない。
 …月の名を持つ予定外、その姿もまた、消えようとはしない。
 …破壊の名を持つ予定外、その闇が『ここ』にある限り。
 …横槍は必要不可欠と。

 ああ、俺は御節介だろうさ。
 だが余計な事だとは思わない。
 良きにつけ悪しきにつけ――あの子にとっては最後にはお前しか居ねぇんだろ。
 そしてそれは――お前も同じだろ。
 誰が何と言おうと、その事だけは覆せねぇんだろ。
 だったら――『最悪の大莫迦野郎』を増長させるような真似だけは、しないでやってくれ。
 あれに関しては出来る限り俺が何とかするから。
 だから――お前らの事は、お前らだけで確り完結してくれ。
 あの子の為にも。
 お前の、為にも。
 ちゃんと心を、救けてやってくれよ。

 …静かに告げる小さな願い。
 …受けぬ瞳が踵を返す。一度足りとも合わせぬままで。答えも何も、今は返せず。

 月の光の揺籠に。
 ――――――『個人の意志』は無駄なのか?


■望まれざる祭

 穣太郎の姿が消え、叫び声を聞いてから躊躇う事無く1−C教室を駆け出していたのは御言。汐耶も後を追おうとするが――廊下に出てすぐ、目の前で屈んでいた御言に遮られ立ち止まる。
 立ち止まった理由――その前で御言に向け倒れ込んでいた男子生徒は、切り裂かれたように血塗れで。
「ちょっと!」
 凄惨な姿、それを目の当たりにしながらも、汐耶は恐ろしくてでは無くどうしたのかと気遣う意味で声を上げ近寄る。…普通に学園生活を送っていて有り得る怪我ではない。
 男子生徒の身体を支えている御言は、何も言わない。
「…月詠、じゃ…ない…」
 自分を支える相手に対し、それだけを残して男子生徒は力尽きる。彼の顔をよくよく見直せば先程繭神と共に来た風紀委員のひとり。穣太郎と1−Cの様子を見張る為に残っていたのか。ともあれ、これは――?
 汐耶の後ろから、血塗れの姿を認めたシュラインも息を呑む。切り裂かれたような傷。思い当たるのは武彦の怪我。武彦のあの傷は大した事が無かったが、あの傷がもし深手であったなら――可能性の姿がそこにある。
 それも、見る限り――手の施しようがない。既に手遅れ、絶命の、数瞬前と――。
「…嘘」
 死んだ。
 そう思った瞬間――その風紀委員の姿は、金糸が解けるような残滓を残してその場から静かに消える。
 予想外の末路。一同は唐突な事に面食らう。死んだ事までは恐ろしい事、認め難い事ながら充分に有り得る事と思う。だが、その直後に普通では有り得ない方法でいきなり消えられてしまえば――日常の学園生活と言う現実は簡単に崩壊する。
「…初めから…人では、なかったようですね?」
 静かに確認する隼人。この学生は――本物の人間では無く、元々が金糸で象られた人型、それに仮初の命を吹き込まれただけのものだと見て取れた。その事実は即ち、こんな事態になる以前から、そんなものを必要とする者がこの場所には元々居たと言う事にもなる。
「…淡く輝く金色の糸、まるで絹糸のようです。それが幾重にも織られて創られた人型ですか」
 ひとつひとつ、分析するセレスティ。
「絹糸で織られた、って」
 妙なる自然で創られる、天より賜られた虫による芸術品。
 …連想させる珍しい名字がひとつある。
 皆が思い至ったと見るなり、セレスティは頷いた。
「――この風紀委員さんが使い魔だったと言うのなら、施術者は、繭神君では無いでしょうか」
 その答えには誰も反論しない。…考えてみれば風紀委員や生徒会役員は、殆ど繭神の忠実な部下のようだった。
 ただ、シュラインだけがひとり、酷く青い顔をしている。
 何か違う懸念があるようで。
「エマ先輩?」
 汐耶が声を掛けても反応が無い。
 が。
「…月神さんでは無いと思います」
 隼人がきっぱりとそう告げる。
 シュラインは弾かれたように隼人を見返した。…彼女の懸念は、ずばりそこであったから。彼を殺したのが月神詠子では無いか。信じ難い、信じたく無いが――目の前にあった材料を見る限りそうとしか思えなくもなり。
 だが隼人はそれを否定する。
「今の方の場合、傷に何の躊躇いも無く見えました。それどころか楽しんでいる気配さえあります。…逆に、草間さんの傷は酷く躊躇った結果、傷付ける意図の無いまま掠めてしまっただけのものでしょう?」
 ですから、方法が似てはいたとしても、同一人物の仕業とは、思えません。
「それに今、彼が最期に言い残した『月詠』と言うのは――」
 ――ひょっとして、月神さんの事では無いですか?
 いつだったか、夢現で聞いた気がする声だけが頼り無い根拠。「キミよりも少し長くこの学園に居る」。そう告げた、声。「ボクの名前は月詠」。そう名乗ったあの声は――思えば、月神詠子の声とも、良く似ていて。
 その前提が正しいのなら、やられた当人こそが彼女とは違うと言っている。
「…何にしろ状況を把握する必要がある」
 言いながら御言が立ち上がる。今風紀委員のひとりが倒れた場所、その先もひとり分どころで無く血に塗れた廊下、つい先程まで賑々しかった場所なのに、今は妙に人気が無い。
 …かと思えばその視界を占める血が、少しずつ薄くなり、幻のように消えている。
 後には何も残らない。
 人の、気配は。
 …そしてただ、無機的な廊下が続くだけ。



 ひとりの男子学生が校舎の廊下を歩いている。
 動くたびに誰かが倒れる。刹那の間で留められる叫び声、恐慌の中喚く声、何事かわからぬまま絶命する誰か。中空に細く朱い弧を描き、鋭い「何か」が何度も閃く。断ち切られる幾つもの生命。
 彼の両手は鮮血で染められていた。

「…貴方の方法に合わせてあげますよ」
 静かに囁く男子学生の声。学年章は、三年生。
 眼鏡の奥には得体の知れぬ紫の瞳。
「こうやって人を殺すのは、僕ではなく貴方が得意な事…そうですよね?」
 誰にともなく、酷く優しく微笑む姿。
「…ですが…ほら、僕だってこのくらいは出来るんですから?」

 貴方が怖がる事は何も無い。
 さあ、早く来て下さいよ。
『僕と同じところに』。

 …彼の通り過ぎた後。居た筈の生気ある存在――複数の生徒の気配は消えている。
 その後にはただ、夥しい血痕と切り裂かれたと思しき数名分の制服が残っていたが――それらは程無く、掻き消えるように消えていた。
 何事も無かったように、否、そこに誰かが居た事すら忘れたように、無機的な廊下が続いている。



 今の状況を把握した方が良い、けれどひとりで出歩くのは止めた方が良い。そう結論が出たところで御言は隼人と共に様子を見て来ようと提案する。シュラインと汐耶は女性、セレスティは足と視力が弱いと見、ひとまず待っていて貰おうと判断した為だ。
 が。
 まずシュラインが抵抗した。武彦の様子と、違うと言われてもやはり詠子の様子が気になって仕方無いらしい。次に否と言ったのは汐耶。最後にセレスティ。あの状況で何も言わず消えた穣太郎の様子や、繭神の事が気になると言う。
 で、御言よりも先に折れたのは隼人。そうなれば四対一。
 …結果、一同は皆で動く事にした。
 教室を出て、血の痕を辿る――辿る間にも血の痕は消えていく。生きている者は何処かに居るか。何が起きたのか。思いながら一同は進み、階段を下りていく。
 と。
 人の気配が前方にあった。
 立ち止まる。
 階段の踊り場。その影。
 …いち早く『音』に気付いてシュラインが叫ぶ。
「チョコ!」
「…お前ら、無事だったか」
 緊張していた踊り場の影、シュラインの声で出てきたチョコ――武彦が安堵の息を吐く。そして周辺を窺ってから、皆の居る方に駆け寄って来た。
「…いったい何なんだこれは」
「貴方がここに来るまでに見た状況を伺っても構いませんか?」
「…とにかく酷いもんだよ。辺り一帯血塗れだ」
「やはり、殺戮の『痕跡だけ』が残っていると言う訳ですね」
「…それも、暫く置くとそれすら消えている」
「私たちの見て来たものと同じですね」
「…ねぇ、どんどん『人が居なくなってる』気がするんだけど」
 確認し合う一同に、シュラインが怪訝そうに告げている。『音』が、確実に減っている。…死んだなら死んだで、生きている時とはまた違う『音』がする筈だ。なのに、それすらも無い。
 音と共に、人と共に、現実感が、消えていく。
「兄貴…いや、穣太郎を捜す」
 唐突に言い切る御言。何か、妙な確信があるような言い方。
 と、それを待っていたように隼人が口を開く。
「真咲の末弟さんなら、また地下に向かったようですよ」



 …資料室。
 部屋の隅、頭を抱えて怯えたように蹲る黒髪の少女――詠子。
 そして少し離れたところに男子学生――繭神が佇んでいる。その頬にはぱっくりと派手な傷が開いている。が、特に気にする様子もない。
 むしろそれを見る詠子の方が余程痛そうな顔をしていた。何かに耐えるよう、苦しそうに歯を食い縛っている。
「く…」
「最早限界か」
「…いやだ、まだ『約束』まで間がある筈だ…!」
「きみが自らここに篭った事には驚いた」
「…だって、これを『本当』にはしたくない…」
「ここから出たなら、あの『殺戮』を目の当たりにしてしまったなら――保たないと自覚はあるのだな」
「…」
 詠子は黙り込む。
 と、繭神は佇んでいたその場でゆっくり腰を下ろした。
「上が治まるまで待つと言うなら、それまでわたしも付き合おう」
 今のきみは放って置けない。
「!」
 弾かれたように詠子は繭神を見る。必然的に頬の傷も視界に入り、振り払うように視線を逸らした。
 そんな詠子に対し、繭神は静かに告げる。
「…この傷はきみのせいではない。上でわたしの式神がやられた、それだけの事」
 これは術が潰された時施術者に返るその報い。
 血の臭いに惑わされるな。…『この傷はきみが付けたものではない』。



 隼人の一声で、六人は地下に向かっていた。校舎を降りていく、その途中にも奇妙なくらい人気が無い。
 そろそろ皆が思う事。
 …これは、夢?
 だが、誰も口には出さない。…出せないのかもしれない。
 様子を窺いながら階下への一階の階段に足を掛ける。地階、廊下まで下りた。
 と。
 その先に。
 居た。
 が。
 彼――穣太郎の右腕や肩は布でぐるぐる巻きになっている上、その色が妙に、黒い。
 今まで見て来た事から思い至るその状況。
 怪我。
「おい…っ」
「穣太郎…!」
「どうしたの!」
「…これ?」
 急に降って来た慌てた声に対し、目をぱちくりさせつつも平然と穣太郎は掲げた右腕を見せる。出血が酷い。貧血になるのが時間の問題――それどころか命に関り兼ねない怪我。シャツを破って止血帯代わりに固く締められてはいるが、それで治るものでも無い。
「…絆創膏じゃ間に合わなかった」
 シュラインの存在を見付けるなり、あっさりとそう言ってのける。
 と、汐耶から続けて怒鳴られた。
「当たり前でしょっ」
 が、怒鳴る声も効いた風が無い。
 ただ。
「えーこじゃなかった」
 そう言って、嬉しそうに笑っている。
「それって…」
「だから、大丈夫」
 と、言ったその途端。
 絶望に満ちた叫ぶ声。…壁一枚隔てた向こう側。近くの教室。ここは地下。待て、と制止する声が同様の場所から続く。だが間に合わない。資料室。声の源。飛び出して来たのは――。
 ――詠子。
 獣染みた異様な素早さ。咄嗟に反応していたのは穣太郎。とは言え動きは当然の如く詠子が上回っている。…手負いとは言えあの野生児の動きを上回っている? その事実は俄かには信じ難い。信じ難いが――同時に、何故か納得出来てしまう気もした。その相手が、月神詠子であるならば。
 穣太郎は傷付いた右腕を盾にし、そのまま捨てるような形で詠子の鋭い手刀――爪を受け止め切っている。
 ぽたりぽたりと血が落ちた。
 廊下に満ちる血臭が、濃い。
「…えーこ、怯えない」
 皆、居るから。
 そんな穣太郎の強い科白に、詠子は恐る恐る視線を合わせる。
 襲ってしまった腕を引く事も、忘れたまま。
「…キミも、ボクが怖くないの」
 ぽつりと呟く。
「こんなボクでも、怖くないの? 認めてくれるの?」
 消え入りそうな声で。
「…あいつは言ってくれた、『僕はありのままの貴方が見たいだけなんですよ』って。あんな言葉掛けてもらった事無かった。それは、大切な皆、傷付けちゃ駄目だって思う、思うけど――それが、ボクなんだ!」
 ほんの僅か気を抜けば凶暴な思いに乗っ取られる。
 何もかも壊し尽くしたい、殺したい。…それが本能。
 そんなのは、駄目だと思う。教えられた思いやり。仲良くしてくれた皆、遊んでくれた人たち。我慢する事で創り出せた優しい時間。楽しい時間。
 …でも。
 駄目だと思う、でも…そんな『ありのままのボク』でもここに居て良いのなら、楽になって良いのなら、それでもボクを受け止めてくれる人がいるのなら――委ねたいとも、思ってしまう。
 同時に思う、正反対の事。
 詠子の中ではどちらの選択も、同じくらい強烈な誘惑になる。『理性』が勝つか『本能』が勝つか。ぎりぎりのラインでそこに居る。
 だから。
 今は――流れる血の臭い、それだけでも、こわい。
 暴力的な勢いで、『本能』に傾きそうになるから。
 攻撃から漸く引いた腕。穣太郎の右腕を切り込んだ自らのその爪を見ながら、詠子は口を開く。何処か虚ろな声。静かではあるがむしろ叫ぶよりも何よりも危うさを思わせる、声。

「ねぇ…皆は…ボクの事、どう思っているの…?」


■月詠

 誰も、言葉が返せなかった。
 今は引いているとは言え目の前で穣太郎の右腕を深く切り込んだ詠子の姿。獣染みた異様な体捌き。指先に纏わり付く赤色をうっとりと見つめて酔っているような表情は――今まで学園内で見ていた明るく朗らかな詠子の姿とは、全然違っていて。
 その身体が纏う気配もまた、異様さを増していた。居るだけで圧されるような強烈さ、ただただ凶暴で純粋な、破壊の意志のような、何か。
 …ボクの事をどう思っているの。問われても、見てしまえば、感じてしまえば――答えがすぐには返せない。
 そんな中。
「穣太郎君も無茶をする…」
 沈黙を破ったのは繭神の声だった。
 詠子が飛び出して来た開け放たれたドア、繭神もそこから姿を見せる。
「会長!」
 無事だったのか。いや…その頬の傷は。…じゃない、どうしてこんなところに。
 そんな動揺気味なシュラインの呼び掛けに、応じたつもりか繭神は小さく頷いて見せる。
「上の事は――」
 あの殺戮の事は知っているのか。シュラインは続けてそう問おうとしたのだが。
「それは問題無い」
 繭神は途中で遮った。
「…え?」
「この神聖都学園は幻の学園、夢を経由する異界だ。故に、『夢を経由して招かれた者の手による殺人』は意味を成さない。殺そうと殺されようと、どちらも『夢の中での出来事』に過ぎない。夢の中で殺された者は『殺された』と言う記憶と恐怖を伴い、現世で目を覚ますだけだ。だが――」
 問題になるのは――『月詠』が、上の殺戮者と同じ事をした場合。
「この異界は月詠によって創られている。故に、月詠の手によりこの場で殺された者は――現世でも死に至る」
 月詠――破壊と殺戮の為に、月の光の妙なる力を用いて造り出された悪鬼…。古に我が一族が造り出した、手に負えなくなってしまった『兵器』である純粋な『力』の手に掛かるなら。
「…月詠、って」
「月神詠子と言った方がきみたちには馴染み深いだろう。彼女の事だ」
 封印の綻びから現れ出でた月詠のごく一部、それが月神詠子と名乗り、この異界を創り出してその中で遊んでいただけに過ぎない。
 衒いなく明かされる。
「この場所で、誰か他の者に殺されるのなら問題は無い、けれど月詠に殺されれば取り返しの付かない事になる…気付いていたんじゃないのか、穣太郎君は」
 だから今、元々傷付いていた――ここに来る以前に酷く傷付けられていた腕を自ら捨てて無傷な者を庇い、月詠から直接与えられるダメージは最小限に抑えたつもりではないのか。
 繭神はちらりと穣太郎に――階下に来た六人に目をやる。
「…今話した事は本来ならば関りの無いきみたちには話す必要の無い事。だが事ここに至っては話さない訳にも行かない事でもある」
 恐らく今、学園内に居た筈の者は殆ど『死に』――現世に帰還しているだろう。ともすればこの異界で今『生きて』いるのは我々ときみたちくらいかもしれない。
 そして今、月詠は――酷く揺らいでいる。
 ――こうなれば、突付き方を…触れ方を少し誤れば、封印が完全に解けてしまうかもしれない。
 きみたちの存在如何で、ほんの僅かな言動次第で、どんな反応を示すかわからない。
 もし封印が完全に解けてしまったなら、今上で起きている惨状が、夢で済まなくなる。
「御言先輩」
 繭神はいきなり呼ばわる。
「まだ、お願いできませんか」
「…俺はまだ穣太郎に任せたい」
「何故です! もう限界だ! このままにしておいたら取り返しが付かない事になり兼ねないんですよ!?」
「…お前もな」
「どう言う意味です!」
「…それに気付かない限り、渡せんよ」
「…っ」
 繭神は御言の言いように言葉を失う。…気付かない、何が!?
 御言はそんな繭神の反応を見たっきり黙り込む。傍観を決め込んだような態度。
 そんな姿を今度ばかりは忌々しげに睨み、繭神は唇を噛み締める。どうしようもない苛立ちが見て取れる。そろそろ、隠し切れていない。
「…穣太郎君は『要石の欠片』を持っているんですよ」
 唸るように、押し殺した声が発される。
 穣太郎が『要石の欠片』を持っている事は元々知っていた。けれど繭神では穣太郎を説得出来ない。そして繭神の力では穣太郎から腕尽くで奪う事も敵わない。だから――保護者の御言に頼む以外に方法が無い。
 …なのに御言は聞き入れない。
 残る『欠片』は後僅かだと言うのに。
「『要石の欠片』…それが君の探していた『欠片』ですか」
 傷付いた穣太郎の右腕に触れ、セレスティが繭神に問う。腕から指先が離された時、穣太郎は意外そうな顔でセレスティを見た。…応急処置の止血どころでなく、傷口からの出血がぴたりと止まっている。これで命まで危なくなるような事は無いと思いますので。穣太郎にそう告げて、セレスティは繭神を見た。
「私も気になっていたんですよ。その『欠片』の事」
 君がそれを集めていた理由、色々と考えてみたのですが…先程仰っていた封印の綻びと言うのが、その『欠片』…なのですか? 君はそれを回収していた?
「…そこまで察してらっしゃいましたか」
 何処か諦めたように繭神が肯定する。
「私が集めていた『欠片』…それは我が一族が月詠を鎮め封印する為に創り出した『要石』が砕けたもの」
 月詠を封印する為に必要なものなのです。
 現世でこれが砕かれた為に、封印が綻び、月詠が不完全ながらも目覚めた。
 それが月神詠子と言う人格。
「でも彼女は…」
 汐耶は思わず声を上げる。
 …とても人に危害を加える事を望む人格には、見えなかった。
 繭神は皆まで言わせない内に頷く。
「それはそうだろう。何を思ったか月詠は――要石を安置していた封印の社の元あった場所、神聖都学園と言う空間に興味を抱いたのだからな」
 …それは、他愛もない興味だったのだろう。
 信じ難い事に、危害を加える気配も何もない。
 ただ、学生のように振舞い、人と触れ合おうと、ままごとを始めた。
 暫くはそれで済んでいた。
 しかし、それでは済まなくなる。
 元来の本性が――まるで違うから。
 …僅か芽生えた心など、いずれ本性に侵食されるのは目に見えている。
 そして。
 強大な力を持ち、残虐に過ぎるこの魂が完全に覚醒してしまえば――。
 現世で恐るべき破壊と殺戮が為される事は、確実。
 繭神の一族の名に於いて、それだけは許してはならぬ、と。
「…そして今の月詠は、上で殺戮を犯している者にある種の共感を抱いている。…そうでなければ、殺戮が起きるその前に、当の殺戮者自身がこの異界から弾かれている筈だからな」
 他ならぬ、月詠の意向に沿わない者として。
「だから上の事態は、月詠が招いた事とも言えるんだ…」
 これが、残虐に過ぎる本性が顕れ始めている証拠だと何故御言先輩は認めない…!?
 繭神は吐き捨てる。
 と、その科白に呼応するように月詠からのプレッシャーが強くなる。…聞いている。
「…ああそうだボクがしたい事をあいつは代わってやってくれているんだよ! そう言えば満足か! 繭神一族のお役目が…っ!!」
 殆ど、絶叫。
 それでも。
 月詠は荒い息を吐きながら震え、何かに耐えるように、動こうとしない。 
「…私には『迷い』に見えますけどね?」
 小首を傾げて隼人が言う。この場面にありながら静かに過ぎる、諭すような口調。
「元々が破壊と殺戮の為の力…そんな事情であるなら、殺戮者だからと言って殊更に忌避する訳がないのは当然じゃないですか? それは前提として置いておくべき事であってとやかくあげつらう事じゃない…。それより、月神さんはさっき穣太郎君に攻撃した時、人を傷付けるのは嫌だと自分で仰いましたが」
 それを考えると、今この場で取り返しが付かなくなるかどうかは…むしろお前次第なのでは?
 と、隼人は繭神をちらと見る。
 繭神は怪訝そうな顔をした。
「…神山先輩までもそう言いますか」
「月神さんの理屈で考えれば、そうなりそうな気がしますけどね。…月神さんは上の殺戮者さんの事を、悪鬼としての自分ごと、認めて愛してくれる者だと思った訳なんじゃないですか?」
 だとしたら、上の殺戮者さんがここに居る事を認めているのは月詠としての本性の顕れではなく、月神詠子としての感情の迷いの顕れ…にはなりませんか?
「…違いますよ、詠子嬢」
 隼人の科白を受け、ぽつりとセレスティが否定する。
「『彼』は、詠子嬢の人格など、心などどうでも良いのだと思います。ただ――月詠でしたか、その『力』を発現したらどうなるのか、興味を抱いているだけなのだと」
 聞いた途端、月詠は激昂した。
 …泣きそうな、顔で。
「そんな事どうしてキミにわかるんだっ!!」
「…わかりますよ。それで合点が行きます。誠名君が君たちに対し随分と捻くれた関り方をしていた事もね」
「え…?」
「誠名君は、君たちの間にある事に余計な手を出すつもりは毛頭無い。ただ『彼』の――上の殺戮者の行動を阻みたいだけなのでしょう。その為に、必然的に君たちの事にも横槍を入れざるを得なくなっている」
「どう言う意味だよっ…」
「『彼』は誠名君にとって――繭神君にとっての月詠、詠子嬢にとっての繭神君のような相手なんですよ」
 決して放り出せない因縁がある、と言う意味で。
 そして、私も『彼』を知らなくは無いんです。
「…断言出来ますよ。上の『彼』が興味を抱いているのは月詠の『力』だけと」
 それでも、『彼』を――?
「うるさい、黙れ――…っ!」
 月詠の叫び。彼女は戦慄きそれ以上何も行動は起こしていない、けれどその怒気だけで、今まで以上にどうしようもなく圧される。精神的に侵され、虐げられて行く気がする。ただでさえそうなのに、感覚が鋭いセレスティともなれば――。
 そう考えたか、繭神が咄嗟にセレスティを庇う形で前に出る。
「繭神君」
「…大丈夫です」
 わたしはこの『気』には慣れている。
 そう告げ、繭神は月詠を見る。が、それこそ月詠にとっては神経を逆撫でられる事で。
「月詠、きみは――」
「キミは決してボクを認めない」
 遮られ、受ける繭神は黙り込む。月詠と繭神の視線が交差する。ごく僅かな時間。一拍置いて、月詠は繭神の真正面に踏み込むとその首を狙って爪を繰り出した。明らかな殺気。ただ、確認して――させてから動いたように動きは遅く。
 繭神は、事前に攻撃に気付いていた筈。
 なのに。
 ただ、黙したまま動かない。
 が。
 月詠の爪が達する数瞬前、繭神の身体ががくりと乱暴に後ろへと引かれている。
「何してるんですか繭神先輩!」
「…綾和泉君」
「今のは――」
 放っておいたら死んでいた。
 なのに、繭神はそれを自覚した上で動かなかったように見える。ある程度の体術は心得ているとは言え、当然人外の動きに付いて行ける訳は無い筈の汐耶で助力が間に合うくらいだったのだから。
 …わざと?
 そんな疑念を抱かせる程。
 爪を揮った月詠でさえ、茫然と繭神を見、硬直している。
 彼女にしてみても予想外の反応だったのか。
 繭神は、倒れそうになった体勢を整える。自分を助けた汐耶に向け何処か諦めたような儚い笑みを見せると、続けて月詠へと目を遣った。
「…わたしを殺せば満足はしないか」
 勝手に造り出した上、手に負えないとなったらずっときみを抑圧し封じてきた憎い一族の、それも、当のお役目なのだがな。
 何処か、自嘲気味に続ける。
「無論、わざわざ死のうとは思わないが…」
 不可抗力であるなら、それもまた悪くない。
 言った途端に頬が鳴った。思い切り叩かれる音。傷の無い側であったのはせめてもの気遣いか。
 繭神の頬を張ったのは汐耶。
「え、汐耶…」
 驚いたように声を漏らす月詠。
「本気でそれで済まそうと思ってる訳!?」
 怒鳴る汐耶。
「そんなのただの逃げじゃない!! それも、全部月神さんに押し付けた上でのね!!」
「…かもしれないな」
 否定せず、繭神は月詠を見た。汐耶に張られた頬も気にしていない。
 ただ、月詠からのプレッシャーが、明らかに減っていた。
 力無い声が、響く。
「なんだよ…勝手だよ。…こっちはどれだけ…」
 怯えながら日々を過ごして来たかわかってるの?
 この場所を創ってから、キミの存在を見付けてから、『自分』を思い出してから。
 もっと続けていたいと思った、だけど無理だともわかってた。
 三十日に再封印するって約束もした。だから、覚悟だってしてたよ。
 だけどキミの方がなんなんだよ!
 いいかげんにしろよ!
 月詠は畳み掛けるよう、何度も何度も叫んでいる。それでも何処か諦めたような繭神には効いた風が無い。聞け。こちらを見ろ。月詠は衝動的に歩み寄る。ぐいと繭神の胸倉を掴み上げ引き寄せると、真正面からその顔を睨みつけた。…簡単に凶器になる爪を薙ぎはしていない。
 ただ、そうしている月詠の指先は、微かに震えていた。
「…キミじゃない、ボクを殺せばいいだろうが…っ」
 ボクが必要無いのなら。封印なんてまだるっこしい真似。ボクはもう誰も殺したくない。何も壊したくない。でも封印されるのも、もう、嫌だ。
 このまま『続ける』のが駄目なら、せめてもう終わりにさせてくれよ…っ。
「…それは無理だ。月詠」
 それが成せるだけの力は、何処にもない。
 月詠の手から逃れようともしないまま、繭神は緩く首を振る。
「きみを滅ぼせるなら一族が疾うにやっている」
 絶望的な、言葉を渡す。
 そこに。
「…ちょっと、訊いてもいい?」
 ずっと黙っていたシュラインの声が割り込んだ。
 繭神を見据えて。
「詠子ちゃんが――月詠が、それ程危ない存在だって言うのなら、どうして初めから…早急に再封印をしようとしなかったの?」
 芽生えた心を、無視して捩じ伏せなかったの。
 どうしたって放って置けないのなら、まだ無害だからってフラフラ動き回る者の様子を見るより、動かない者を見ている方が余程楽な筈よね。いずれ破綻すると予期出来るのなら、まだ何も起きない内に封印の綻び…要石の欠片を早々に集めてしまった方が楽なのも同じだし。それに…ここがそんな危険な存在が創り出した異界と言うのなら、危害を加える加えない以前に、無関係な人々を呼び込む事を許すなんて甘過ぎると思うけど。
 ねぇ、どうして初めから…『あんたはそんなに詠子ちゃんに譲歩している』の?
「――」
「あんたが本当に一族としての責任感や使命だけで動いていたのならどうして、『月詠』じゃない、『月神詠子』ちゃんの人格を認めているの?」
 畳み掛ける。
 あんたの立場なら、詠子ちゃんの人格なんて、到底認められない事なんじゃないの?
 どうして、『わたしを殺せば満足はしないか』なんて――それは考えを読み違えているにしろ――相手の立場を想っての言葉が出るの?
「…わたしは」
「繭神」
 ふと、武彦が前に出る。ポケットを探り、何か掴んだのか握ったままの手を出した。
「やるよ」
 言葉と共に差し出された武彦の拳。思わず受ける形で広げた繭神の手。そこに落とされたのは…淡く輝く要石の欠片がひとつ。
 繭神は僅か目を見開く。
「…草間君」
「拾った時はどうしたら良いのか全然わからなかったんだが…話を聞いた今、こうするべきかと思ってね」
 俺はお前を信じたくなった。
 続け、詠子と繭神の両方を見る。
 ひどく頼りない、縋るような詠子の顔。
 惑うような繭神の顔。

 ………………どちらも、まるで子供のような。

 そこに。
「…僕もあげる」
 ん、と武彦の真似をするように穣太郎が両手で握った拳を差し出してくる。惑い、固まっている繭神の緩く広げられた掌の上、そこに穣太郎はぱっと拳を広げた。
 煌きの欠片が落ちる。僅かな月の光を受けて。複数の欠片がぶつかり、冴えた高音が鳴り響く。繭神の掌から煌きが幾つか零れもした。
 さすがに繭神も驚いた。今穣太郎に渡されたこれを足せば、要石の欠片はすべて集まった事になるのかもしれない。それ程の量。
「…これ程集めていたのか」
「おんなじひかりで、すごくきれいだったから」
 …僕も会長、信じたい。
「同じ、光…」
「そろそろ気付かれましたか、繭神さん?」
 隼人の声。
 …『気付いた』か。
 御言と隼人が言った事。取り返しが付かなくなり兼ねない。どうなるかは、繭神次第――。
 繭神は渡された欠片を見つめる。
 同じ光。
 月詠――月神と。
 繭神は唐突に腑に落ちた。
 惑っていた自分、それは何故かを理解した。

 だが。
 背負う十字架が重過ぎる事に、変わりはない。
 繭神はゆっくりと瞼を下ろした。
「…それでも」
 武彦と穣太郎に渡された要石の欠片を、繭神はただ、握り締める。
 …要石の欠片、それらひとつひとつが鋭く尖った石なのに。
「わたしの役目は、彼女を封印する事…だけ、なんだ」
 繭神は掌が傷付いても厭わない。痛みなど感じていないように、ただただ、強く握り締めている。
 床に零れ落ちてしまった、大切な筈の石の残りにすら…注意を払っていない。
 やがて、握られた拳からぽたりぽたりと血が落ちる。
 それでも繭神は動かない。

 ………………月詠も――月神詠子も、すぐ側でそれを見ていて。
 繭神の胸倉を掴んだままの手から、今度こそ、力が抜けた。


□■■■■■■□■■■■■■■■■■■■■■■■■■□
■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
□■■■■■■□■■■■■■■■■■■■■■■■■■□
 ■整理番号/PC名/性別/神聖都学園在籍クラス

 ■0086/シュライン・エマ/女子/2−A
 ■1883/セレスティ・カーニンガム/男子/3−A
 ■1449/綾和泉・汐耶(あやいずみ・せきや)/女子/1−C
 ■2263/神山・隼人(かみやま・はやと)/男子/3−A

 ※表記は発注の順番になってます

×××××××××××××××××××××××××××

 …以下、登場NPC(■→当方/□→公式)

 □鍵屋・智子/女子/3−C
 ■真咲・誠名/男子/3−A
 □繭神・陽一郎/男子/2−B
 ■真咲・御言/男子/3−C
 ■真咲・穣太郎/男子/1−C
 □月神・詠子(月詠)/女子/?
 ■杉下・神居/男子/2−?
 □SHIZUKU/女子/2−C
 □草間・武彦/男子/2−A

 ※共通ノベルの名前の登場順で表記してます(殺戮者こと謎の男子三年生は除きます)



●【個別ノベル】

【0086/シュライン・エマ】
【1883/セレスティ・カーニンガム】
【1449/綾和泉・汐耶】
【2263/神山・隼人】