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東京怪談コミュニティ・オープニングは、読者参加型の小説です。
最後の一文字まで読むと、霊格の強いお客様に多大な被害を与える恐れがございますので、まずは無料の『人物登録』で、あなたがこの『東京』に存在するための偽装人格を、あらかじめ作成して下さい。
そうすれば、自分の作成した偽装人格を、次回の物語に登場させようと試みる事も可能となります。

■帰昔線はこれで終了です。沢山のご参加ありがとうございました。


第1話第2話第3話│最終話│


< 最 終 話 >

●消え去る魂

 何もない空間‥‥全ての存在する空間。限りなく透明な闇に閉ざされた空間の中で、草間武彦と紫月六理、そして瀬名雫は、帰昔線の車掌の前に立っていた。
「無限の時間の奔流の中、誰が正気を保っていられます? 時の樹を切る者には、それに打ち勝つ強い意志が必要なのです」
「‥‥でも、やらなければ、自分の望む未来を手に入れる事は出来ない‥‥そうだろ?」
 草間がそう確認する。車掌は頷くだけで答えを返した。草間は小さく笑い、時の樹に向かう。
「じゃ、決まりだ‥‥」
「待って!」
 そこに響いたのは、滝沢百合子の声だった。
「待って‥‥。雫ちゃんと探偵さん、車掌さんの話、聞いてたわ。私、現実の世界に生きる人が時の樹を切る手伝いをする!」
 百合子は、キッと草間に鋭い視線を向けながら、竹刀を構えて叫ぶ。
「探偵さんには樹を切らせない。過去に行った人には絶対に切らせない! 私は、我侭かもしれないけど、私の現実に帰るのよ!」
「百合子ちゃん、何があったの?」
 百合子の尋常ではない様子に、雫が思わず聞いた。百合子はポツリと答える。
「過去へ行ったの‥‥お父さんとお母さんに離婚は止めてって言いに‥‥そしたら、私のために話し合ってくれて。私の為に良い様にしようって言ってくれて‥‥嬉しかった」
 言う百合子の目に涙が流れる‥‥だが次の瞬間、百合子は弾けるように叫んだ。
「でも、あの時正しい選択が出来なかった私には、どんなに辛くたって元の現実を生きていかなきゃならない責任があるはずよ! そして、自分の望む世界に変えていく努力をしなきゃいけないのだわ!」
 百合子は‥‥過去に戻り、そこで運命の転換点を迎えた。そこで感じたのは、やり直す事への罪悪感‥‥そして、やり直しに慣れる事で後悔をする事が出来なくなるのではという危惧。
 だから‥‥現実へ戻りたいと。
 そんな思いから出た百合子の言葉に、六理が同意を示し、頷いて言った。
「そう‥‥だよね。やっぱり、こんなの間違ってるよ。だって、帰昔線に乗って変えた過去はその人達にとっては幸せな現実だけど、それは本当の現実じゃないもの」
 六理の思いは、決意へと固まっていく。そう、帰昔線を切ろうという決意に。
「私、帰昔線を切る! 過去を変えて、幸せな現実を生きている人達にも辛くても辛い過去をきちんと受け止めて、本当の現実を生きてほしいと思うから‥‥」
「六理ちゃん。止めよう? あたし達じゃ樹は切れないよ。だって、そんなに強くないもの」
 決意の声を上げた六理に少し焦りながら、雫は六理にすがりつくようにしてそれを止めた。
「感じるでしょ? 時の樹の存在感。きっと、人じゃ切れないよ‥‥宇宙を切るだけの力、自分にあると思う?」
 時の樹の圧倒的な存在は既に六理も知っている。人の手に余る存在‥‥そんな事は、ここにいるだけでヒシヒシと感じられた。
 正直、人が手を出して良いものではない。
 しかし、それでも選択は成さねばならなかったのだ。各々が前へと進むために。
「雫ちゃん! 邪魔しないで‥‥そうしなきゃいけないの!」
 百合子が叫んだ。その剣幕に、雫は思わず後ずさる。百合子は、雫から目をそらし、草間に向き直った。
「貴方に邪魔はさせない!」
「止めろ。その子じゃ、絶対無理だ。時の樹を切れはしない」
 草間が言う。だが、百合子は退かない。
 その間に、六理は草間を警戒しながら、時の樹へ向かって走り出した。
「ち‥‥」
 草間は舌打ちと同時に走る。六理を止めるために。だが、その前に割り込んだ百合子が、裂帛の気合いと共に竹刀を振り下ろした。
 草間は敢えてその一撃を受け、そのまま六理に向かって駆ける。そして、六理に向かって手を伸ばす‥‥
 だが、六理はそれよりも早く、時の樹へと手を伸ばしていた。
「あ‥‥」
 それは、六理が樹に触れてすぐ‥‥
 六理には圧倒的な時の奔流が見えた。“全て”が流れ込む。“全て”を知った。
 宇宙の成り立ちから、神の神秘まで。
 世界を構成している原子の種類と数、電子、クォーク、それよりも小さな物。
 思い。小さな恋。大量殺戮。ささやかな嘘。歴史の真実。見果てぬ夢。現実の前の絶望。
 時間、時間、時間、時間‥‥
 “全て”が流れ込んだ。それは、人としてのささやかな許容量をあっさりと超えてしまう。その瞬間、六理の魂は脆くも砕け散った。
 六理の体は力を失い、その場に頽れる。肉体は生きていた‥‥だが、魂は死んでいた。
 そして‥‥時の樹の一枝が枯れる。
 同時に、草間が六理の腕を掴んだ。その手の中、六理はかすれるようにして消えていった。
 手の中で消失していく六理を見た草間は、言葉もなく空っぽの手の中を見つめる。
 と‥‥その傍らに車掌が立った。
「‥‥切れた方は居ないと言った筈です。誰がどんな思いを抱こうと、如何なる修行を積もうとも、この時の樹を切る事は出来ません」
 車掌は、少し寂しそうに言う。多くの、同じように無駄な死を見てきたのだろう。
「考えても見てください。人の思いなんて、無限の時の前にどんな意味がありすか? 数十年、数百年の修行が、何の意味を持ちます? 相手は無限の時なんです。その意味を理解して欲しいですね」
「待って! そんな事より、六理ちゃんはどうなったの!?」
 狼狽しながらも聞く雫に、車掌は冷徹な答を教えてくれた。
「‥‥あの方が生きていた世界が閉じたのです。あの方は、全ての世界から消滅した‥‥いえ、最初から存在していなかったのです」
 時の樹に触れた代償‥‥それは消滅である。
 自分自身が存在した可能性を根こそぎ消去される‥‥それは死よりも悲しい事。誰も思い出してくれなくなるのだから。
「でも、あたしは憶えてるよ!?」
「ここは、隔絶された世界ですから‥‥因果律の影響を受けないんですよ」
 六理は消えた。もう、この宇宙の何処にも居ない‥‥それを悟り、雫がその場に立ちすくむ。そして‥‥百合子は、
「嘘‥‥私がやらせたから? 私が殺しちゃった‥‥私が‥‥」
 百合子は呆然となりながら、その場に膝をついた。自らの選択の結果は‥‥死。
「だ‥‥大丈夫だよ。だって、決めたんだもん。現実をちゃんと受け止めて、責任をとっていける人になるんだって‥‥だから‥‥」
「‥‥死は取り返しが付かない。責任をとる事なんて出来ないんだ」
 百合子の、砕けた心を拾い集めるような思考を草間は突き崩した。
「君が幾ら前向きに生きたとしても、死んだ者は帰ってこない。君は彼女に対して、何の責任もとる事が出来ないんだよ」



●新宿駅


 碇麗香は、草間探偵事務所を訪ね、草間の仲間と合流して新宿駅へと来ていた。
「‥‥解っているのかな? 核を壊したら、文字どおり1から過去を始めるんだよ。今までの現実が消滅すると言う事は、これまでの経験が無くなるんだから」
 駅の改札口をくぐりながら大角御影は言う。 一見、過去を変えた方が皆幸せになれそうだが、帰昔線を形成する核(時の樹)を、過去を改編した者達が壊した瞬間から、『この時こういう事があったから気を付けよう』という判断が不可能になると推測。そもそも『現実』での体験と記憶が有るからこそ、『過去』に戻った時に同じ失敗をせぬよう回避出来る訳であり、この『現実』が核を壊す事によって消滅した瞬間、『過去』は『今現在』になり、経験も記憶も消え失せるはずなので、過去を変えたい人たちが核を壊す事を選ぶのは、一概に幸せとは言えないのではないかと考えたわけだが‥‥
 それに対しては、続けて改札口を抜けた麗香が答えた。
「理屈通りならそれはないわね。新たに立つ現実は『過去を改竄しに来た者の居る現実』だから、改竄者は古い現実の記憶を保持し続ける筈よ。そういう設定を含めての現実なんだから」
 つまり、中心となった人物の記憶がリセットされる事は無いと言う事だ。新しい現実が成り立っている前提に改竄者の存在がある以上、改竄者の存在を消去してしまうような変化は訪れない。矛盾が起こるからである。
「つまり、違う現実からやって来た、未来の記憶を持つ人間が居る世界が、新しい世界になるって事ですか?」
「そうよ。ま、過去を変えるなんて言うから誤解するのかもしれないわね。変わるのは過去じゃなくて、現実の方なのよ」
 正確には、改竄者を中心として、現実が変化するのである。織り直されるのは周囲の現実であり、改竄者はあくまでも中心であり続ける。
「‥‥記憶が維持されるとなると、帰昔線はPTSDの克服にはあまり役に立たない?」
 ふと、大角が聞く。麗香が答える。
「そうでもないでしょ? PTSD克服の為に過去の事件との対決を行うような治療法もあるもの。何もしないよりはましな筈よ」
 麗香は‥‥何処か影のある笑顔で付け加えた。
「もっとも‥‥辛い過去を追体験する。過去の記憶を掘り出し、立ち向かえるだけの意志の強さがないと、帰昔線で本当に辛い過去を治せるはずがないけどね」



●黒いドレスの女を追って


「帰昔線に関する情報があるわ」
「ほ、本当ですか!?」
 月刊アトラス編集部に行ったエルトゥール・茉莉菜に応対したのは、原稿がちっとも進まなくて泣きが入り始めていた三下君だった。
「ど、どんなお礼でもしますぅ〜、教えて下さい〜、踊れと言えば、踊りますから〜」
 三下君は、靴を舐めろと言えば舐めるんじゃないかと思わせるような勢いで、非常にみっともなく茉莉菜に迫る。
 茉莉菜は、その勢いに辟易としながらも、冷静さを崩さずに返す。
「落ち着きなさい。教えても良いけど、代わりに一つ教えてくれない?」
「出来ることなら、何なりと!」
「黒いドレスの女について何か知らない? 強力な超常能力をもっているみたいだから、ここに何かの情報がないかと思って‥‥」
「黒いドレスの女ですね! 今、調べてきます!」
 三下は飛ぶように走って資料室へと突っ込んでいく。ややあって、何かが崩れる音と誰かが潰されて悲鳴を上げる声が聞こえ‥‥茉莉菜はここに来た事を後悔し始めていた。
 過去にも今の現実にも執着はなく、過去に行った人々を呼び戻す義理もない茉莉菜は、帰昔線には乗れないだろう。その辺りは、帰昔線に乗れなかった他の者達と一緒だった。
 だからこそ、他の方面から探ろうとしたのだが‥‥どうやら、それにはなかなか時間がかかりそうだった。



●呼ばれざる客達


「この仕事、無かった事にさせて貰います」
 久我直親は依頼人にそう告げた。
 帰昔線‥‥消した方が良かったのかも知れない。だが、末席とはいえ神として力を振るうモノに人の身で抗う事は出来ないだろう。
 久我は、身の程を知らぬ愚者ではなかった。
 帰昔線を消す‥‥言うのは簡単だが、そんな事は現実的ではない。
 それに、過去を振り切ったことで久我は、帰昔線に乗る切符を失っている。
 あの日、帰昔線の窓の外に見たのは、自分をかばって死ぬ青年の姿。久我はそれに背を向けたのだ。命を投げ出して自分を救ってくれた彼の行為を、自分が過去へ行って消し去る事は彼の心を殺す事になるからと判断して‥‥
 もう二度と帰昔線に乗れはしないだろう。
 帰昔線は、帰昔線を必要としない者にはその道を開かない。となれば、久我に手を出す術はない。もっとも、手を出せたとしても、人と神の差を久我の力では越える事が出来ない以上、何をすると言う事もできないのではあるが‥‥
紫月夾 直弘榎真
 同じ頃、紫月夾は新宿駅の中を彷徨っていた。
 目的は、噂に聞く帰昔線を消し去る為なのだが‥‥彼は知らなかった。『過去を後悔した事など一度たりとて無い』等と言える人間は、そもそも帰昔線に乗る事は出来ないのだと言う事を。帰昔線は、過去への強い思いがなければ乗れはしないのである。
 そんなわけで、夾につきまとっていた直弘榎真もまた、日がな一日新宿駅を彷徨って終わった。まあ、仮に夾が帰昔線に乗れたにしても、誰かについていくという手段で帰昔線に乗ることが出来ない以上、結局は置いて行かれたのだろうが。


武神一樹 藤村圭一郎
 他に、武神一樹もまた、帰昔線を消すという目的の元に新宿駅を彷徨っていた。そう‥‥彷徨っているだけだ。帰昔線には乗れない。
 理由は紫月と同じ。過去に帰る必要性を持っていない以上、帰昔線は門を開かない。
 過去を二度と繰り返さないと言う決意があっても帰昔線には乗れない‥‥かえって邪魔になるだろう。その決意の元に過去をやり直そうというのなら話は別なのだろうが、結局、武神が望んでいるのは帰昔線の消滅なのだ。
 現実を生きる事を望む者は、帰昔線に乗れはしないのである。
 そして、藤村圭一郎も置いて行かれた。草間に恩を売ろうと考えて草間に会う為にとの事であったが、打算で帰昔線には乗れないのである。
 変えるべき過去を必要としない者には帰昔線は門を開かないのだ。
 神夏木聖夜も帰昔線には乗れない。
 依頼人の婦人から頼まれた捜索の対象の夫は、帰昔線に乗ったらしい。故に、それを探すために帰昔線を探していたわけだが‥‥まあ、言うまでもなく、過去への回帰を願っていない神夏木では帰昔線には行く事が出来ない。
 そして更に‥‥だ。
「どうして乗れないの!? この間は、これで乗れたのに!」
 先週は帰昔線に乗れたのに、今日はどうやっても乗れない‥‥困惑した様子の金糸雀琴音に、抜剣白鬼は言った。
「ま、当然だろうな」
 抜剣が見るに、原因は琴音の心変わりだろう。現実を変えたくない‥‥イコール、過去を変えたくないと言う事。それに、帰昔線を矛盾した存在とまで思っている。
「帰昔線は神だって話なんだろう? なら、自分を必要としていない連中に、神が力を貸すはずがない」
 帰昔線が人を乗せるのは、帰昔線の存在が“過去への回帰を願う者”を過去へと送る為に生み出されたからだ。
 だが、帰昔線を否定する人間は、もちろんの事ながら過去への回帰を願わない。つまり、過去へと送る必要はそこに存在しない。
「つまりだな。『帰昔線は間違っている』とか、『帰昔線を消すんだ』とか考えている奴は、帰昔線に乗れないって言う事だ。まあ、帰昔線をどうやって消すかも、知らないわけだけどな」
「帰昔線? 貴方達もそうなんですか?」
 それは、背後からかけられた声。
 そこにいたのは、大角御影。そして、草間探偵事務所の面々と碇麗香だった。



●境界を越えて


「なるほど‥‥そう言う事か。だが、帰昔線を消し去る方法があるとは言っても、一人や二人では倒せんだろうな」
 事のあらましを聞き、苦笑する抜剣。彼はまさに真理を突く推測を持っていた。
「どう言うこと?」
 首を傾げて聞く琴音に、抜剣はそれがむしろ当たり前なのだとでも諭すかのように答える。
「帰昔線は数えきれないくらい大勢の想いで出来たものだ、一人で倒そうだなんて僭越すぎる。それなりの人数と、それぞれに強い想いを持って挑まないとな」
 人としての容量の問題。幾ら超常能力を持つ者であっても、無数の人の願望の集合体である帰昔線にかなう筈がない。求められるのは人知を超えた心の強さ。個々に気張って見せたって、どうなるというものでもないのだ。
「無論、帰昔線を消そうという強い意志を持っていることも大事なのだろうが‥‥とは言え、俺等はその意志があるが故に帰昔線に弾かれているらしい」
「同行できないのは残念だけど‥‥ね」
 抜剣の言葉に続けて、琴音が残念そうに溜息を深々とついた。
「私達はここまで。後は貴方達がやって」
 言い残し、二人はその場を去る。
 その後ろ姿を暫し見送り‥‥サイデル・ウェルヴァは、気怠げに口を開き、言った。
「それにしても皮肉だと思わないか? 帰昔線を必要だと思わない奴は、帰昔線に乗れない‥‥つまり、帰昔線を消そうと思っている奴は、帰昔線には乗れない。そして、乗れなければ消す事なんて出来やしない」
 そう‥‥それが最大の問題。それで多くの人間が引っかかり、新宿駅を無意味に彷徨う羽目になった。その打開案を、風見璃音が皆に提案するように答える。
「でも、そこをどうにかして乗らなければならない‥‥草間とはぐれてしまったあの時に帰りたいって思えば、それが帰昔線の切符になるんじゃない?」
「正解の半分と言ったところだな」
 サイデルは、軽く肩をすくめて言い、そして、
「要するに祭りなのさ。必要なエネルギーを、儀式という定められたベクトルで効率的に集め、神に捧げる。ならば過去に向かう思いを効率的に上昇させればいい」
 ゼロからエネルギーは生まれない。なら、帰昔線へと向かうために必要なエネルギーは何処から生まれてくるのか? それは、過去への回帰の願い‥‥すなわち、効率的に過去への回帰の思いを導き出す術があるのなら、帰昔線に乗る事は可能となるのだ。
「草間の奴への思いでも良い‥‥それが出来ない奴は歌いな。憶えているだろう? ウサギ追いしかの山、小ブナ釣りしかの川ってさ‥‥」
 望郷の歌。それは過去への回帰を示す‥‥その歌によって、過去への思いを効率的に向上させれば、帰昔線へ行く事が出来る筈だ。
「さ、グズグズしてないで行くよ。こんな事はさっさと終わらせちまうに限る」
 サイデルは素っ気なく言い、小声で歌を歌い始める。そして‥‥皆は境界を越えた。



●夏生


「過去に逃げても真の幸せは来ないよ。人生は自分の力で変えるものなんだから‥‥ねえ、このまま現実の駅で降りて‥‥ね?」
 榊杜夏生は、帰昔線に乗る従姉妹の冬里にそう訴えかけた。だが、冬里は夏生に、悲しそうに微笑みかける。
「ねえ、真の幸せって何?」
「え‥‥?」
 夏生には答えられなかった。真の幸せなどという言葉を使えても、実際にそれが何なのかを理解して、しかも相手に伝えられるかと言えばそれは有り得ない。
「‥‥‥‥」
「御免、意地悪だったね‥‥あのね? 真の幸せなんて、本当は無いのよ」
「そんな事無い! そんな事‥‥」
 声を上げる夏生。冬里は顔を背ける。
「じゃあ、真の幸せって何? 知らないのよね。じゃあ、どうして真の幸せが過去に無いって事は知っているの?」
 何も知らない。真の幸せが未来にしかないなどと言う根拠を示す事は出来ない。
 そもそも、真の幸せなどと言うものが存在するのかどうかでさえ、知ってはいない。
 誰しもそれはあると願っているだけで‥‥幸せになどならずに消えていく人だっているのだ。
「安っぽい言葉で引き留めるのは止めて。私はわかっているの。あの家に私のいる場所はない‥‥私じゃなくて、お人形でも置いておけば良いんだわ。それで、十分じゃない」
「馬鹿!」
 夏生は、冬里にすがりつき、その体を叩いた。だが、子供の力では何が出来るというわけでもない。冬里は‥‥悲しげな表情に笑みを乗せ、言う。
「元気な夏生‥‥絶望とか、苦しさとか、全然知らない夏生‥‥貴方はそのままで居てね。ずっとそのままで居てね」
 冬里は立ち上がるとドアの前に立った。
 夏生は後を追おうとしたが、冬里の冷たい視線に足を止める。夏生は、冬里がまるで知らない人のように思えた。
 そう‥‥冬里は知らない人になるのだ。
 と、その時、電車の中にアナウンスが流れる。
『前世〜、前世〜、下り口、左側になります。お忘れ物の無いよう、お気をつけください。前世です』
 そして‥‥冬里の姿はドアの向こうに消えた。



●過去を変えた男


「よぅ‥‥草間の旦那。久しぶりだな」
 帰昔線‥‥その先頭車両に入り込んできた渡橋十三。彼は、草間と‥‥そして、泣いている雫と百合子を見、少し非難するように草間に言う。
「おいおい、草間の旦那‥‥女の子を暗がりに引き込んで、何て事‥‥」
「‥‥今は冗談は止めてくれ」
 草間の真剣な声に、渡橋は異常を知った。
「何があったんだ?」
「‥‥後でな」
 草間は答えず、一瞬だけ百合子達の方を視線で示した。彼女達の前で語る事は出来ない‥‥そんな意図が、渡橋に伝わる。
 黙り込んだ渡橋に、草間は言った。
「‥‥久しぶりだな。過去に下りて‥‥どうした?」
「ん? いやぁ‥‥娘とカミさんと‥‥へっへっへ、久しぶりに親父の真似事をな」
 照れ笑いをする渡橋。
 渡橋にとっての分岐の日‥‥その日は過ぎていた。その日、借金の連帯保証人になった事から始まり、身を持ち崩していったのだが‥‥その日は、娘の沙耶を遊園地に連れていって楽しく過ごした。
 これで、記憶にある過去は去った‥‥その安堵か、それとも再び見えなくなった未来への不安からか、渡橋は再び帰昔線に乗っていた‥‥
「草間の旦那に会いたくてここまで来たが‥‥旦那も元気そうで何よりだ」
 そう渡橋が言った時、第二の訪問者が姿を現す。
室田充 「おっちゃん!」
「立て続けに来客が在るな」
 草間は呟きながら、入り口を見る。そこには、柔らかな物腰の青年が立っていた。
 青年は、渡橋に安堵半分悲しみ半分の顔を向けながら、歩み寄る。
「おっちゃん、どうして‥‥って、アンジェラの格好じゃないと分からないか」
 自分の体を見回しながら青年‥‥室田充は言った。そう言われ、渡橋は初めて相手の正体に気付く。
「アンジェラって‥‥そうか、いや、なる程な。見違えちまったよ」
「そんな事よりも、何でここにおっちゃんがいるの? ロクさんもチョロさんも心配してたよ?」
「あ、ああ‥‥」
 聞かれ、途端に歯切れが悪くなる渡橋。
 その様子を見‥‥室田は、渡橋が過去を変えるために過去へと帰ったのだと悟る。
「桜の咲く頃に、またみんなで呑もうねって言ったのに。皆の事、放っていなくなっちゃうのかい? ‥‥その世界は、幸せなのかもしれないけど」
 室田は渡橋から目をそらし、悲しそうに言った。
「突然姿を消した貴方を探す、今の人達の方が‥‥可哀想だ」
「待て‥‥」
 草間は室田に厳しい言葉をぶつけた。
「‥‥お前、残された人達が可哀想だから、渡橋に戻れって本気で言うのか? 家族と帰る家がある生活を捨てて、段ボールで寝起きする明日をも知れない生活に戻れって言うんだな?」
 どっちが渡橋にとって幸せなのかは一目瞭然だろう。なのに、室田は過去の生活に戻れと言わんばかりの台詞を吐いている。
「それは‥‥」
「草間。止してくれ‥‥結局、俺は逃げてるんだ。兄ちゃんの言うとおりなんだよ」
 言葉に詰まる室田。渡橋が代わりに草間に言う。自嘲めいた笑みを浮かべて。
 だが、草間ははっきりと渡橋に言い返した。
「逃げ‥‥か。それも良いじゃないか。逃げだろうと何だろうと、胸張って生きれば良い。今度こそ、あんたの妻子って人を守り抜けば良いさ。それを逃げだと言う奴が居たら、胸を張って言ってやれよ。『俺は逃げている。でも、妻と子供は守ってやるんだ』ってな。それが言えりゃあ、格好良いよ」
「でもよぉ‥‥家族も大事だが、今迄の色ンな奴等との出会いも俺の中でチャイには出来ねェ。俺の選択は結果的に多くの人間を不幸にしたがな‥‥」
 言いよどむ渡橋に、草間は強く言う。
「手前の女房と子供くらい守れないでどうする。辛いのはこれからなんだ。一度、失敗して逃げた事に立ち向かわなくちゃならないんだぞ?」
 そう‥‥一度のミスを回避しただけで、それから先の人生がバラ色に染まるわけではない。
 結局、帰昔線はやり直す機会を提供するものでしかないのだ。その機会を有効にするのも、無駄にするのも、全ては本人次第なのである。
 今までの渡橋のような自堕落な日々を送っていては、結局は同じ結末に辿り着くだろう。本当に幸せになるには‥‥絶え間ない努力をし、自分を変えていかなければならない。
「今までの現実で出会った人々に、あんたは色々なものをもらってきた筈だ。それを活かして生きればいい。出来るよな?」
「へっ‥‥どうかな」
 渡橋は弱々しく笑った。そして、
「ま、試してみらぁ」
「じゃあ、今日の所は帰れ‥‥今度、あんたの娘を見に行かせてもらうよ」
 草間は、冗談混じりに渡橋に言う。渡橋は草間に背を向け、肩越しに返した。
「俺に似た可愛い娘だ‥‥旦那の嫁にはやらねぇがよ」
 去っていく渡橋‥‥見送ってから草間は、室田に言う。
「許してやれよ‥‥突然、去られた方はショックだろうけどさ。渡橋は‥‥もう一度、戦わなければならないんだから」
 室田は静かに頷いた。
「そう‥‥ですね。皆には僕から言っておきます。渡橋のおっちゃんは、幸せになろうと頑張っていたって‥‥」




●時の樹の向こうに


「‥‥そろそろ、試してみるか」
 客が居なくなり、草間は最後のタバコを吸い終え、言った。
「このままじゃあ、先に進めないからな」
 出来るか出来ないかわからないが、とにかく時の樹に挑んでみる‥‥草間の成すべき事を成すべき為には、それが必要な事なのだから、後に回しても意味はない。
 草間は、時の樹に向かって足を踏み出す‥‥と、そこに転がり込むように銀色が走り込んできた。
 それは、小さな子狐。草間の馴染みの一匹だった。
「お前‥‥どうして?」
 驚きの声を漏らす草間の前、子狐は威嚇の唸りを上げて立ちふさがる。
 草間は‥‥子狐に向かって足を進めた。
 少しの間、唸りを上げていた子狐だったが、草間が歩みを止めないのを見‥‥一瞬、苦痛の表情を浮かべた後、突然に狐火を放った。
「な!?」
 さすがに草間は足を止めた。その前、狐火は何もない床に落ちて弾け、消える。
「‥‥お前、お稲荷さんだったのか?」
 良くはわからないが、この近所をチョロついていた子狐はいわゆる化性の物であったと言う事だろう‥‥だが、草間は狐の化性と言われてもお稲荷さんくらいしか思いつかなかった。
 実際は妖狐であり、お稲荷さんではない。
「ま‥‥今更だな」
 帰昔線だの何だの、訳のわからない事に絡み続けてきたのだ‥‥今更最後に妖狐が出たからといって、驚くべき事でもない。
 草間は、止めていた足を再び動かす。
 子狐は、再び狐火を放つ‥‥しかし、放った狐火は、その全てが草間から外れた。
 草間は、それを知っているかのごとく歩みを進めていく。そして‥‥進退窮まった子狐は、もう一度草間に狐火を放つ。
 それは、草間の胸に真っ直ぐ吸い込まれて行き、爆ぜた。青白い炎を上げて燃えた狐火‥‥その中から、草間が姿を現す。そして草間は、いつものように子狐を拾い上げた。
「‥‥痩せたんじゃないか?」
 子狐の軽さにそんな感想を漏らす。
 子狐は気遣わしげに、焼け焦げた草間の服を見ていた。きっと、火傷も負っている事だろう。だが、草間はそんな事は何も気にせずに子狐に話しかける。
「なあ‥‥お前が、どうして邪魔をするのか、俺にはわからない。だけど、お前にはお前の信念があったんだろ? お前も、俺は俺の成すべき事をやろうとしているんだとわかってくれ」
 子狐は、草間にその瞳を覗かれ、子猫のように丸くなった。それを草間はヒョイと頭の上に乗せ、軽く溜息をつきながらこの空間の入り口とおぼしき辺りを見る。
「けっ、草間まだ居やがったか」
 そこに踏み込んできた一団‥‥口火を切るかのように言ったサイデル・ウェルヴァに、草間は苦笑と共に返した。
「久しぶり‥‥とは言え、ここじゃ時間の感覚がわからないんだが」
「一週間よ」
 そう教えたのは、シュライン・エマ。草間はエマに申し訳なさげな顔を向けた。
「そうか‥‥意外に長かったんだな。出来るだけ早く帰るつもりだったんだが‥‥」
「はい武彦さん、この前買った煙草。使わないと勿体無いし」
 エマは、草間にタバコを差し出しながら聞く。
「昔の憂い晴れた?」
「まぁな」
「‥‥良かった。向う選んだのは少し‥‥かなり残念だけど悩んだんでしょ? なら私が如何こう言う問題じゃないわ」
 タバコを受け取り、早速一本くわえて短く答えた草間に、エマは言葉を続けた。
「‥‥ここ来るまで悩んでねぇ、過去に行って止めるって手も考えたけど‥‥違うの。居て欲しいのは過去の変革を厭わない様な人であって、止めて辞める様な人じゃない。武彦さんがそのどちらなのか、それが気になってあの日残らず乗り込むべきだったかと悔やんでたんだけど‥‥」
 エマは、自分の昔帰線切符を暫し見つめる‥‥そして、
「これですっきりしたわ。私が選ぶ行動は一つ‥‥今を残すために帰昔線を切る。凄いエゴよねぇ」
風見璃音  言い切ったエマに続き、風見璃音が何処か罪悪感を噛み締めながら続ける。
「過去へ戻って新たな現実を生きてる人達には気の毒だけど‥‥何かを犠牲にする事無く望みを叶えるなんてもともと出来はしないのだから。せめて良い夢を見た程度に思って欲しいわ」
「犠牲‥‥どれだけの犠牲を払えば、それが許されると言うんだ?」
 草間が聞く。命を投げ出せと言えば、投げ出す者はきっと居るだろう。どれ程の犠牲が必要なのか‥‥具体的な答はない。
 璃音は、草間から目をそらして言った。
「‥‥欺瞞だって事は自分でも知っているわ。でも、誰にだって‥‥現実で帰りを待ってくれている人がいるでしょう?」
「‥‥そうでもないさ」
 璃音に、草間は静かに言葉を返す。
「俺の知っている女はそうじゃなかった。確かに、彼女を大事に思っていた奴はいた‥‥だが、そいつらみんな彼女を受け止めきれなかった。彼女は帰昔線に乗り‥‥幸せな時を過ごしている。彼女が帰るべき場所は過去であり、現実じゃなかったのさ」
「でも、現実に残された人の思いを無視して、自分だけ幸せにやり直そうなんて勝手すぎない?」
「だからといって、仲間の中に一生、居続けるわけにも行かないだろ? 別れなんて、いつも突然で勝手なんだよ」
 何時かは別れる‥‥それは、璃音も良く知っている事。草間は淡々と続ける。
「‥‥たとえ勝手な別れでも、旅だった先でその人が幸せにしているなら、それはそれで構わないと思わないか?」
「過去は過去だからいいんだよ! 過去の失敗が成功につながるってこと、沢山あるでしょう?! イヤだから戻るなんて絶対ダメ! 人生を甘く考えるなーーー!!!」
 突然叫んだ三角田藍子。そんな藍子に、麗香が呆れた口調で言う。
「ああもう。小娘っぷり全開で聞き分けない事言わない。わかってないの? 草間が過去に耽溺するような人間かどうか‥‥ね?」
 藍子は‥‥黙り込んだ。考えてみれば、草間は過去にしがみつくような男じゃない。
 概ね全てを察した麗香は、草間なら絶対にこんな説明はしないだろうと、代わりに色々と話して聞かせる。
「現実を曲げてでも、過去を修正しなければならない理由があった‥‥草間は責任を果たそうとしているのよ。今、過去の改竄を諦める事は、草間にとって責任を放棄する事でしかない。逃避でも何でもなく、現実の人間として出来る限りの事をしようとしているのよ。かつて自分が果たせなかった責任のために‥‥」
 そこまで言い麗香は、草間を見据え軽い非難の情を込めながら話を振った。
「草間‥‥いい加減、話して上げたら? 貴方のお仲間、随分と心配していたのよ?」
 何故、草間がここにいるのか‥‥
 草間は少しの間、宙に視線を走らせ‥‥タバコを一本くわえると火をつけ、深々と煙を吸い込む。そして、煙と共に言葉を吐き出した。
「‥‥全部、昔の仕事絡みさ。女を二人ばかり、幸せにしてやりそこなったのを思い出してな」
 草間は一人、苦笑を浮かべる。そして、この場にいる者達の顔を見渡し、皮肉げに言った。
「一人は今、帰昔線の過去の中に生きている。彼女はその中でしか生きられない人だった。その幸せから彼女を引き離す事は出来ない」
 和泉蓮の笑顔が思い出される。あの笑顔を、偽りだと否定する事は出来なかった。
「もう一人は‥‥未来がある筈の人だった。俺の過ちがその未来を奪った。彼女に、本来歩む筈だった未来を返す‥‥俺はまずその為に帰昔線に乗ったんだ」
 自嘲するように呟く草間の中に過去の情景が思い出される。夜霧‥‥そしてルージュと流れる血の鮮烈な赤がつきまとう古傷‥‥人に言えるほど格好の良い話じゃない。
 草間は小さく苦笑した。
「結局、俺が彼女達に出来るのはそれくらいだ。こればかりは、過去を変えない事にはどうにもならないからな」
 辛い過去‥‥ではあるが、過去を消し去りたいという願いよりも、むしろ過去へ帰って救いたいという願いの方が強かった。
 故に、二人を守るために、草間は退けない。
「‥‥それだけじゃないんでしょう?」
 エマが、少し困ったような表情で聞く。草間は彼女から目をそらすようにして答えた。
「‥‥まあな。二人とも、幸せになる権利があった。俺を頼ってきていた。本当は、俺が救わなければならなかった‥‥だが、若造だった俺には何も出来なかった。それで、今になって、仕事の続きをしてる‥‥馬鹿な話だよ」
「そうじゃない‥‥好きだったのかって話よ」
 草間の背に投げかけられたエマの言葉‥‥草間は口の端を笑みに歪めて答える。
「‥‥言ったろ? 昔の事さ。もう忘れたよ」
「女のためか‥‥格好つけるじゃないか草間」
高御堂将人 「そんな‥‥冗談事じゃないんですよ!?」
 サイデルが、ほんの少しだけ笑みを浮かべて言った。それに、高御堂将人が抗議の声を上げる。
「回帰して過去を変える電車‥‥一人の『夢』で済む間は無害ですが、何かの拍子にこちらに影響がでてしまっては、それは有害になります」
 そんな高御堂の断定に、麗香がちょっと見下すような感じで言い放った。
「あら、歴史の変革が及ぼす結果は必ずしも有害とは限らないわ。例えば、暗殺されたケネディが生きていたら、ベトナム戦争はあそこまで激化しなかった‥‥何万人、助かるかしら? しわ寄せはどこか他に行ったかも知れないけど‥‥所詮、帰昔線はIFをもたらす物でしかないもの。歴史の変革の試みを、より大きな悲劇を生む可能性があると言うだけで否定する? より良い未来に辿り着く可能性もあるのに」
 結局は、帰昔線が有害かどうかは、それを利用する者の理性と良心に左右される‥‥と言ってしまえば、帰昔線に限らず、世に存在するほとんどの物は悪用が可能だ。
 それに、本来の現実に影響を及ぼすためには人知を超えた心の強さが必要。結局、帰昔線を悪用して楽をしようなどと言うふやけた奴に時の樹が切れるはずがない。
 実は、帰昔線は放っておいても、本来ならばそれほど影響を及ぼす物ではないのだ。
「過去は変えられません。過去を繰り返さないために、過去から学び、現在を生きる。やがて来る未来のために。そうじゃないですか?」
「現実、変える手段が目の前にあるだろう。それに、記憶は変革後も維持されるから、過去から学ぶか学ばないかは個人の問題であって歴史の変革とは関係ない。未来の為にという意味だけなら過去を変える事を禁忌と見る理由にはならない‥‥これで満足か?」
 高御堂の台詞全部に律儀に答えを返した。
「お前の言いたいことはわかるが、俺も退くことは出来ないんだ。ここで退けば、俺には未来はなくなってしまうから‥‥」
 草間は言い足し、更に続けて他の者達に言う。
「お前達もわかって欲しい。俺は‥‥俺でありたい。これは俺の我が侭だ‥‥」
「‥‥‥‥しょうがないわね。武彦さんには、武彦さんらしくいてくれないと困るもの」
 エマが答える。
 草間を失うのは嫌だ。だが、草間を変えてしまうのはもっと嫌だった。
 それは、他の者も概ね同じ。
「私も‥‥ただ、一つだけ約束して貰うわ。必ず、草間興信所に戻ってくる事‥‥あなたは私の仲間なんだから」
 璃音が言い、サイデルがぶっきらぼうに言った。
「いいかいこの世に正しいことなんざありゃしないよ。せいぜい自分が間違ってないと思うことをやりな。できなきゃあたしがやる」
「わかっているさ」
「待って!」
 草間が返事をし、話がまとまりかけた時、そこに新たな侵入者があった。
 草壁雪那と松本梨衣菜。
「話は今、車掌さんから聞いたわ。いい加減にして! 過ぎてしまった事をやり直す事にどれ程の意味があるって言うの!?」
 梨衣菜が、思いの丈をそこにばらまく。ついさっきも、同じようにして友人を止めてきたばかりだ。
 そして、彼女の言葉に続けて、雪那が言った。
「‥‥私だって、やり直したいことは沢山ある。だけど、多くの人は、辛くても、今の現実を受け入れ、生きている。貴方達がどんな過去を歩んできて、どんな思いをしたかなんて、私は知らない。だけど、貴方の望んだ歴史は、他の人の望まない歴史かも知れない。貴方が苦しい想いをすることで、救われている人もいるかも知れない。それを理解してくれるなら、歴史を変えるようなことはしないで」
「そんな理屈で諦められるなら、辛い過去だなんて誰も言わないだろうな」
 草間が溜息代わりにタバコの煙を吐き出す。
 他人の為に我慢しようなどと言えるのは、まだまだ心に余裕があるか、もしくはよっぽどの聖人君主であるかだ。
 残念だが、草間はそのどちらでもなかった。
 その草間の答を受け、雪那は何処か思い詰めた様子で、高らかに宣言する。
「そう‥‥なら私は、私がどうなろうと、私の‥‥私達の歴史を守る為に、この木を切る!」
「待ちなさい。そう悲観したものでもないわ」
 雪那に言い放ったのは、麗香だった。
「並行世界‥‥理論上それは無限に存在出来る。つまり、有り得る世界全てと有り得ない世界全てを足して、まだそれ以上の数があるって事。例えば、私の立っている位置が右に1ミクロン程度違うだけで後は全部同じって言う世界から、剣と魔法のファンタジーみたいな世界までってのが有り得る世界の例。有り得ない世界なんてのは想像も付かないけど、人間の想像力なんかは所詮、有限だから」
 と、ここまで台詞を並べ立ててから話が脱線しかけている事に気付き、進行方向を変える。
「ま、ともかく、時の樹の中にある過去は無限‥‥だとしたら、どこかにみんなが納得できる過去もあるはずなのよ。過去を変えるのは間違いだって言う人は、そのままの過去を送り、それで居ながら過去を変えたいって人はその望みの叶う過去‥‥絶対にあるはずなの」
「そんなの‥‥」
 納得していない‥‥と言うか、出来ていない雪那に、麗香は言う。
「全く‥‥これくらい、SF業界じゃお約束よ? 貴方、同業でしょ? 自分の分野ばかり勉強してるんでしょう‥‥時間旅行物のSFでも読んでおきなさい。ハードな奴ね。結構、楽しいわよ」
 ちょっと勝ち誇るように言われ、雪那はまあ色々言いたい事はあったが黙り込んだ。オカルトの知識はちょっとした物であるが、さすがにSFの知識となると薄いからだ。
 黙り込んだ雪那と対照的に、大角は感心したような視線を麗香に向けて言った。
「SF‥‥詳しいんですね」
「気にしないで。雑誌の編集なんかやってると、どうしてって聞きたくなるような事にも詳しくなっちゃうものなのよ」
「ちょっと、梨衣菜の話が終わってないよ! 過去をやり直して‥‥」
「過去をやり直せば‥‥大事な人が戻って来るんだよ。それでも、無意味なのかな?」
 梨衣菜の話に割り込む‥‥榊杜夏生。
「って‥‥あたしは失敗しちゃったけど」
 苦い笑みを浮かべる夏生のその隣、夏生を気遣いながら立つ望月彩也の姿があった。
「お久しぶりです。雫さん」
「雫ちゃん。久しぶり‥‥やっと会えたね」
「彩也ちゃん‥‥夏生ちゃん!」
 二人の姿を見た雫は、一瞬、きょとんとした表情を浮かべた後‥‥その瞳から大粒の涙を落とし、一息に駆けて彩也の胸へと飛び込んだ。
「六理ちゃんが! 六理ちゃんが‥‥六理ちゃんが死んじゃったよぉ!」
「え? 六理さんって‥‥一緒に来るはずだった?」
 さすがに、驚きの声を漏らした彩也に、百合子が震える声で言った。
「私が‥‥私が殺しちゃったの」
「違うよ! あたしが誘ったんだもん! 六理ちゃんを誘ったのは、あたしだもん!」
 百合子の言葉に、弾けるように反応して叫ぶ雫。
「何が‥‥あったの?」
 夏生が聞く。それに、雫はポツリ、ポツリと説明を始める‥‥やがて、全てを話しきった雫を、夏生はギュッと抱きしめた。
「‥‥雫ちゃんも百合子ちゃんも悪くないよ。それは‥‥」
 仕方がなかったと言おうとして、夏生は言えなかった。
 仕方がない‥‥それで話は終わらない。雫と百合子が自分を責める事を、止める事は出来ないだろう。
 何も言えないでいる夏生。その前‥‥雫が涙を拭って百合子に言った。
「百合子ちゃん‥‥あたし、六理ちゃんを生き返らせるよ。ねえ‥‥車掌さん、時の樹を切れば、それって出来るんでしょ?」
 雫の問いに、車掌は答える。
「‥‥できます。もっとも、復活するのは、同じ魂を持ち、同じ記憶を持ち、同じ肉体を持っている、貴方達から見た場合の違う現実の人間と言う事になりますけどね」
 違う現実‥‥派生した紫月六理のいる現実。
だが、それは紛れもなく紫月六理である。
「‥‥樹に触れれば、お前も死ぬぞ」
 草間の言葉に雫は、涙を落として言う。
「他に‥‥責任の取り方なんかわかんないよ」
 六理の死を受け入れ、前向きに進むことが出来たとしても、六理は帰ってこない。
「百合子ちゃん、元の現実に戻れなくなるけど‥‥許してくれるよね?」
「‥‥‥‥」
 百合子は‥‥首を横に振る。
「ダメ‥‥やり直せないから過去じゃないの? やり直せないから後悔して、もう2度と後悔しないように努力するんじゃないの? ‥‥今ここでまたやり直したら‥‥私は後悔が出来なくなる。またやり直せば良いって、思ってしまう‥‥そんなの駄目‥‥」
「百合子ちゃん‥‥未来には六理ちゃんはいないんだよ? 六理ちゃんの為の未来もないんだよ? 強くなくて良いじゃない。弱くたって良いよ‥‥六理ちゃんがいる方がずっと良い」
 雫は百合子に‥‥そして、この場の全員に向けて言った。
「六理ちゃんがいない事に納得するなんて出来ない‥‥どうして? 今なら助けられるのに、どうして諦められるの?」
 その訴えかけに、草間が答えて言う。
「今なら手を伸ばせば救えるんだ‥‥なのに、どんな理由にせよそれをしないのは、そいつを自分の意志で殺すのと同じだ」
 救える‥‥救えるのだ。それが、如何に道義から外れていようと、救う手段がある。
 なのに手を差し伸べないと言う事は、道義の為に自らの手を血に汚したのと同じだ。
「過去を救う‥‥その上で、現実への影響も防ぐ。それでこそヒーローじゃないか?」
「無駄よ! 見たでしょう!? 樹を切ろうとした人は、皆死んでしまうの‥‥人に出来る事じゃないんだわ」
 百合子は、草間に叫んだ。
 時の木を切る事は出来ない‥‥それは、六理が命を散らせて見せてくれた結論の筈だった。
 だが、百合子に麗香が言う。
「方法はあるわ‥‥多分、出来るんじゃないかって奴が一つ。みんなで一緒に樹を切るの‥‥一人では切れなくても、大勢でかかれば何とかなるんじゃない?」
 それは、抜剣の発案によるもの。残念ながら、彼は帰昔線の切符を持ち得なかったが‥‥
「願いは帰昔線を切る事だったけど、変えてしまって今度は、草間を中心にして過去に生きる人達と今を生きる人達にとって最良の現実を望む。それで‥‥全ての関係者の望みを内包し、それでいながら現世に影響を及ぼさない終わりをもたらすの」
「なるほど‥‥そう言うやり方は初めて見ますね」
 車掌の声には、少しばかり賞賛の色が見えた。
 帰昔線の本質を理解し、それに適切な手段を用意するというのは、なかなか出来た事ではない。
「行けるかもしれないな」
 草間は、それならば可能性があると踏んだ。
「やれやれ、やっと決まったのかい? 時間をかけすぎなんだよ」
 サイデルが応えて、おっくうそうに時の樹に向かって歩き出す。そして、エマと璃音が続いた。
「武彦さんの願い‥‥しょうがないわね」
「上手くすれば、草間も戻って来るんだ。一蓮托生ってのも悪くないか」
 璃音はさっさと時の樹に向かう。エマは草間の前に残り、言った。
「あの、武彦さん、しばらく手を繋いでも良い?」
「‥‥」
 草間は無言で手を差し出す。エマは、その手を両の手で包み込むようにして、しっかりと握った。
 暖かさが、心地よく感じる‥‥
「‥‥ありがと。さて、気合い入れたし‥‥切るとしますか」
 微笑み、そしてエマは草間の手を放して、時の樹へと歩き出した。
 そのエマの後に高御堂が続く。
「それなりに生きてきた現在を、知らない所で変えられてはたまりませんからね」
 苦笑を残して、時の樹へと向かった高御堂。
 そして、次には麗香が動いた。
「大角君は記録しておいて。上手くすれば、特集で半年は引っ張れるネタだから、しっかりね」
「ばっちり、残しておきますよ」
 麗香が、大角に言い残す。大角はカメラを構えて見せて、同意の意志を報せた。
 と‥‥雪那が、麗香に言う。
「そんな答‥‥認めないわ。このことは全部、他紙に書いてあげるんだから」
 麗香は、全く堪えた様子もなく、見下すような素振りで言い返す。
「好きにしなさい。ああそうだ、職にあぶれたらうちに来なさい。トイレ掃除くらいはさせて上げるわ」
 高笑いを残し、麗香もまた時の樹へと歩んでいった。そして‥‥その時、
「そいつ‥‥俺も手伝わせてくれ」
 それは渡橋だった。彼は、照れ笑いを浮かべながら言う。
「帰らねぇで、話を聞かせてもらっていたよ。俺も‥‥何かしてぇんだ。俺の周りの奴ら‥‥俺を俺でいさせてくれる奴等のためによ」
 草間は何も言わず、口元に笑みを浮かべ、ただ軽く手で渡橋を招いた。
 そして、歩き出した渡橋と一緒に時の樹の方に歩みだす。その肩に、子狐を乗せて。
「待って‥‥あたしも」
 その後に続いた雫。彼女に、草間は振り返って言った。
「君達は残ってくれ」
「え? でも!」
「俺達が失敗したら‥‥何か、もっと確実な方法を探してきて、失敗した俺達を生き返らせてくれ。保険をかけておきたい」
 本音は危険が待ち受けるところに子供を連れていきたくないから‥‥それは、良心からの言葉。だが、
「‥‥私は一緒に行く! 私も草間興信所の仲間だから‥‥止めたって行くんだから!」
 藍子は、しっかり胸を張って草間の前に立った。草間は‥‥ただ一言答えた。
「わかった。一緒に行くぞ」
「はい!」
 藍子が草間の後に続く。そして、既に先に待っていた皆に合流した草間は、視線だけで皆との意志を確かめあい、そして時の樹に手を差し伸べた。
 皆がそれに倣い‥‥草間が時の樹に手を押し当てると同時に、他の者達もまた触れた‥‥
 ‥‥その直後、全てが訪れた。
 六理の時と同じように、世界を構築する全ての存在と非存在、そして無限の時間が皆に流れ込む。
 しかしそれは、全員に分配されたのか六理の時とは違い、断片的な無意味な情報の流れとなって、比較的緩やかに各々の体の中を流れる。
 それでもその苦痛は、全員の顔を苦痛に歪ませるに十分過ぎるものであった。
「く‥‥」
 苦悶の声を上げる草間。ともすれば圧倒的な情報量の前に掻き消されそうになる自分を、必死で維持し続ける。その圧力に屈したとき、自分は六理のように消えてしまうのだろうと本能的に悟った。
 そんな過酷な状況の中、草間の横で藍子がうめき声と共に漏らす。
「こんな電車無い方がいいんだよ‥‥」
 それは、遠く離れて見守るしかない雫達にも聞こえていた。
「みんな、苦しんでる‥‥」
「皆さん、きっと間違えているんです」
 雫が呟いたその時、彩也は言った。
「帰昔線さんが在ってはいけないとか、間違っているとか、そんな事‥‥帰昔線さんは私達の願いを叶える為に頑張って下さっているんですよ? 帰昔線さんは、とっても優しいですから‥‥私達の願いを聞けば、きっと助けてくれます」
 そう‥‥帰昔線自体の協力を願う。それは成功のための最後の鍵だった。
 帰昔線は、人の願いを叶えるために生まれた神。善でも悪でもないが、恐れる必要はない。
 彩也は、今は既に死んでしまった祖母と過ごした時間を忘れない。それは、帰昔線がくれた時間‥‥その幸せをくれた帰昔線を、存在してはいけないものなのだと一方的に決めつける事は、彩也には出来なかった。
「帰昔線さんは願いを叶える電車なんですもの。心から願えば‥‥きっと」
「じゃあ‥‥彩也ちゃん。一緒にお願いしよう。あたし達が幸せな世界に帰れるように」
 雫はそう言うと、大きく息を吸い込んで空手を高く掲げた。そして、
「帰昔線よ! 皆が望む終わりを‥‥無限の枝の中、皆が望む未来を‥‥お願い!」
「何、今の‥‥雫ちゃん?」
 突然叫んだ雫に驚いて、夏生が恐る恐る聞く。雫は、ちょっと照れ笑いしながら答えた。
「ん〜〜、ちょっと雰囲気だそうと思って」
「雫さんらしいですわ」
「そうだね」
「うん‥‥いつも通りな感じ」
「あんたら‥‥面白いよ」
 彩也、夏生、百合子が、思わず笑顔を浮かべる。梨衣菜もまた笑顔を誘われ、この輪に加わった。そんな皆の前、雫は手を差し伸べて言った。
「じゃ、みんなで‥‥ね☆」
 各々皆は頷く。そして‥‥雫、彩也、夏生、百合子、梨衣菜が心を一つにして願い、叫んだ。
「「「「「帰昔線よ! 皆が望む終わりを‥‥無限の枝の中、皆が望む未来を‥‥お願い!」」」」」
 叫びが‥‥時の樹を揺るがす。
 その瞬間、時の樹に触れていた皆にかかっていた負荷が急速に薄れていった。
「これは‥‥行ける! 願え! 新しい未来を!」
 草間の叫びが、全員の意識を一つにまとめ‥‥それは強大な心の力となる。
 一瞬、時の樹が身震いしたように見えた。
 その直後、草間達は皆、振り解かれたかのように大きく後ろに弾き飛ばされる。
「木が‥‥」
 その時、一人離れて状況を見守っていた、雪那が呆然と呟いた。見ている前で、時の樹はその姿を幹の辺りから薄れさせていく。
 そして‥‥その代わり、樹上の一枝に、一点の小さな光が宿る。
 それは、小さなつぼみ。つぼみは緩やかな速度で生長し、その身を開いて、一輪の綺麗な白い花が咲かせる。
 と‥‥花は急速に輝きを増し、やがてその白い光は、この空間の全てを包んでいった。この場にいた者達全てを‥‥
 そして、全ての者達は、何処か遠くの方で車掌のアナウンスを聞く。
「次は終点‥‥新たなりし現実。これより先、この電車は回送となります。お忘れ物などございません様、お気をつけください。終点‥‥新たなりし現実です」



●新たなりし現実


 倉実鈴波は、電車の待ち時間つぶしに、『良く出る単語1500』を読んでいた。
 と‥‥ふと、人の気配を感じて目を上げる。
 彼が見る先、先ほどまで居なかった筈の一団‥‥すなわち、草間興信所の面々の姿が、突然に姿を現していた。
「あれ? いつの間に電車がきたのかなぁ。もしかして、のりそこねちゃった?」
 まあ良いかと彼は、そんな事にはあまり注意を払わずにまた参考書に目を落とした。
 今の彼は、帰昔線の調査の為に費やした時間分、きっちりと遅れた勉強の穴埋めをするのに忙しかったのである。


 気付いた時、皆は新宿駅の中にいた。
「草間さんが居ない。渡橋さんも」
 藍子が辺りを見回して言ったのに、麗香が答える。
「二人はきっと、私達よりも過去に帰ったのよ。探偵事務所で待っていると思うわ」
 歴史は同じように経過し‥‥そして、再びの邂逅をもたらすだろう。それこそが願った事であり、選んだ現実であるのだから。
「じゃ、帰ろうか‥‥」
 璃音が言い、駅のホームをさっさと歩き始める。他の何処でもなく、草間興信所を目指して‥‥


「六理ちゃん!」
「あれ? えーっと‥‥あ、ゴーストネットOFFの関係の人かな? 御免なさい、遅れちゃって‥‥帰昔線に乗ろうと思ったんだけどって、どうして泣いてるの?」
 ゴーストネットOFFのチャットで知り合った人達と帰昔線探しに行くつもりで新宿駅まで来ていた紫月六理は、目の前で突然にボロボロと泣き始めた少女、雫と百合子を見て困惑した。
 まあ、誰だって初対面の相手に泣かれればびっくりするだろう。
「ごめんなさい、私のせいで!」
「生きてて良かったよぉ!」
 感激のあまり、百合子と雫は六理に抱きついた。
「え? な、何なの!?」
 六理は、泣きじゃくる二人を放り捨てる訳にもいかず、目を白黒させながらそこに立ちつくしていた‥‥



杉森みゆき ●終わりの後に


「さて‥‥帰昔線探索は、めでたし、めでたしと‥‥」
 さて帰ろうとしていた雫であったが、そうは問屋が下ろさないとばかりに襲いかかった者が居た。
「あーっ! こんな所にいた!」
 新宿駅中に響きわたるような声を上げたのは、雫のネットカフェ友達の杉森みゆき。
「あ、みゆきちゃん」
「まったくもお、雫ちゃんったら全然反省してないんだから!」
 駆け寄ってきて、あっさりと雫を捕まえたみゆきは、逃げられないようにしっかりと、ネコの子みたいに首根っこを押さえ、ずるずると引きずりだす。
「ああああああ、夏生ちゃん、百合子ちゃん、彩也ちゃん、梨衣菜ちゃん、六理ちゃん、またねぇ〜」
 引きずられながら、雫は手を振り、友達に別れを告げる。そんな雫を引っ張りつつ、みゆきはプリプリ怒りながら言った。
「全く‥‥謹慎明けに早速、こんな所に来て!」
「ええ〜‥‥でもぉ、大変だったんだよ?」
「問答無用! どうせまた怪奇現象がどうとかでしょ? あのねぇ雫ちゃん、八百屋のおじさんまでブロードバンドだ何だって騒いでるご時世だってのに、そんな怪奇現象なんてインチキ臭いモノが、実際に起こるわけないでしょう? そーゆー訳わかんない事にホイホイ首突っ込んで、また危ない目にあったらどうするの!」
「でもでもぉ〜‥‥‥‥」
「謹慎延長一ヶ月よ!」
 騒々しい声が、遠くへ消えていった‥‥


「結局‥‥何もできなかったな」
 皆と別れ、新宿駅を出た夏生は小さく呟いて新宿の街の中を歩き出す。結局、従姉妹の冬里を呼び戻す事は出来なかった。
 何もできないまま‥‥
 と、夏生はふと、群衆の中に冬里の姿を見たような気がした。
「お姉ちゃん?」
 慌てて探してみるが、その懐かしい姿は無い。
「そっか‥‥お姉ちゃんは、生きているんだ」
 不意に悟る。冬里は‥‥この世界の何処かで生きている。別れは唐突で、寂しかったけど‥‥冬里が幸せなら、それで構わない。
 本当に‥‥願わくば、幸せであるようにと。夏生は群衆の向こうに祈りを捧げていた。


 百合子は、携帯電話から自宅に電話を入れていた。‥‥いつも通り、誰も出る事はない。
「私の選んだ現実‥‥‥‥」
 百合子は、自分にとっての元の現実に戻ってきたのだろう。両親が離婚してしまった現実へ‥‥百合子は複雑な思いで、その現実を噛み締めていた。
「でも、これで良かったんだよね」



●次に続く線路


「お客さん‥‥この電車は回送ですよ?」
 電車に戻った車掌の前、座席に座っていたのは高峰沙耶だった。
「もうすぐ夜が明けて、始発が来る‥‥そうでしょ?」
 車掌に、何ら臆せず沙耶は言う。車掌は溜息をつきながら、車内の掃除を始めた。
「‥‥機関室は掃除して上げたわよ」
 沙耶は嫣然と微笑みながら、車掌に水晶の砂時計に封じられた一握りの砂を見せる。
「‥‥時の砂。永劫という時に触れ、砕け散った魂の結晶」
「それが欲しかったんですか? となると‥‥大変な事ですね。しかし、これで貴方は悪役ですか?」
 納得した様子の車掌。沙耶は水晶の砂時計を豊かな胸の間に落とし込む。
「物事を一面からだけ見ると、善悪というのは非常にわかりやすいものよ。でも、それは結局、何も見ていないのと同じ事‥‥彼等はそれくらいわかってくれると思うけど」
 沙耶は、車掌の方にちらとだけ視線を向けて言った。まるで、車掌‥‥つまりは帰昔線もまたそうなのだと言うかのように。
 そして、沙耶は呟くように問う。
「彼等は大丈夫かしら?」
「‥‥帰昔線に残された全ての人の願いの世界をより集め、世界を織り直しました。これで‥‥誰もが自分の望んだ世界に生きることになるでしょう。もっとも世界の方は、矛盾している部分の干渉やら何やらで、因果律も時空の壁も不安定になるでしょうね」
 因果律が不安定になると、世界にズレが起きる場合がある。例えば、昨日倒れた筈の東京タワーが、何故か今日見たら在るとか‥‥
 そして、時空の壁が不安定になると、異世界へ迷い込む等という事故が起こったり、逆に想像もつかない様な世界から様々な物が迷い込んだりする。
 だが、車掌も沙耶も、さほど気には止めていなかった。
「まあ、そうなればなったで、それを抑える為の何かが生まれる事になるのでしょう。この帰昔線のように」
「そうね‥‥その程度の揺れは今までに幾らもあった筈。100年200年経てば落ち着くでしょう? 些細なことだわ」
 世界に元から存在する綻びがまた多少緩んだだけの事。それが原因でどうなろうと、気にするべき事でもない。
「そう‥‥些細な事よ。世界が滅びる事はないのだから」



●新しい日常


「何だか、最近はゴーストネットOFFへの投稿が増えたねぇ‥‥全く、バッカみたい」
 怪奇現象なんて、最初っから信じていないみゆきは、ネットカフェで雫が見ているHPを見て、そんな感想を漏らした。
 その横、長く辛い謹慎がようやく解けた雫が、HP上の情報に一つ一つ目を通しながら、非常に怪しい感じで呟く。
「うふふふふふふふ‥‥良いよね。こういう世界の方が面白くて」
 そう、怪奇現象は若干の増加傾向にあるようだった。様々な訳のわからない事が起こり、怪奇現象の存在を信じる者も増えてきている。
 まあ‥‥お茶の間のニュースをにぎわすほどではないのだが。
 そう言った謎の事件の増加は、他の場所にも様々な影響を及ぼしていた。
「三下くん‥‥」
 原稿を読み終えた麗香が、冷たい笑顔で優しく言った。
「没」
「ああああああああああああああっ」
 シュレッダーに投下され、紙屑へと変わっていく労作に、三下は別れの涙を流す。
「最近、こういった事件が増えてるんだから、十人並みの文章なんか書いていたら、他の雑誌と差別化がはかれないでしょ!? ネタは山ほど在るんだから、もっと面白いものを書いてくる!」
 麗香の剣幕の前、三下は尻を蹴られたみたいな勢いで自分の机へと戻っていく。
 そんな三下を見送り‥‥麗香はふと呟いた。
「草間の方も忙しくなっているでしょうね」
 麗香は少し意地悪く微笑む。それは‥‥何処か、ほんの少しだけ楽しげだった。



●事件解決


「何だか‥‥妙にオカルト系の話が増えたな」
 現実を変えて以降、草間興信所に持ち込まれる依頼が激増した。だが、その増えた分は全て怪奇現象がらみ。草間には、どうしてそんな事になったのか、見当も付かない。
 まるで地獄の釜の蓋でも開いたのかといわんばかりの騒ぎだ。
「しかも、どうしてうちに話を振るんだ? 神社だの寺だの他へ行けよ。終いにゃあ、怪奇探偵だなんて言いやがって‥‥くそっ!」
 苛ついているようで、まだ吸い差しのタバコを灰皿に押しつけ、草間は唸る。
「俺は普通の探偵だ! 浮気調査だの、ストーカー退治だのをやって、日銭を稼いで生きて行けりゃあいいんだよ」
 全く‥‥タバコが不味い。
 草間はそんな事を考えながら、依頼書の中から新たな封筒を拾い上げる。と‥‥それは依頼書ではなく、一通の手紙だった。
 草間は差出人の名を見て、軽く目を見開く。
 そして、机の上に乱雑に積み上げられた資料の中からハサミを探し出し、それをペーパーナイフ代わりに使って手紙の封を切った。
 中には、手紙と写真が一枚‥‥そこには、幸せそうに腕を組む恋人達の姿が写っている。
 和泉蓮‥‥本来なら有り得なかった筈のその写真に、草間は苦笑にも見える笑みを浮かべた。
「ま‥‥いいか」
 草間は立ち上がると、未解決事件のファイルが収められた小さな書類ケースの中から、ファイルを取り出し、その写真を挟み込む。
 そして、思い出したかのように草間は、机の引き出しの奥から擦り切れた写真を一枚引きずり出した。その写真の中の女性の微笑む姿に、草間は少しだけ苦い笑みを浮かべ、それをもう一つ取り出したファイルの中に挟む。
「これで‥‥事件解決だ」
 二つのファイルは、解決済み事件の書類ケースに移される。その事件は、今やっと草間にとって過去の事件となった。
 ファイルが開かれる事は‥‥もう無い。



<作者より>

 長らくお待たせいたしました。帰昔線シリーズ、これにて終了です。
 今回の帰昔線事件により生まれた時空のほころびにより、界鏡線が生まれる事になります。
 今後とも、東京怪談の世界をお楽しみ下さい。



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